ハンガリー動乱
日本では「ハンガリー動乱」という語が定着しているが、この「恐怖の館」博物館は「ハンガリー革命」(Hungarian Revolution)という言葉を使っていた。そしてこれを「20世紀最大の反共産主義革命」と呼ぶ。議論もあるところだろうが、確かに振り返れば、鉄の社会主義体制が支配する時代に起こった反体制抵抗運動としては、最も激しくかつ犠牲の大きかった革命といえるだろう。
反乱はソ連の戦車によって残忍に弾圧されたが、その後ある程度の穏健派が政権を握り、1989年の東欧革命の先陣を切るなどで一定の影響をその後に残している。
東欧民主化革命を先導
東欧民主化のきっかけとなったのは1985年からのソ連ゴルバチョフ政権による「ペレストロイカ」政策など上からの改革だったが、その動向を慎重に見極めながら穏健的な改革を進めたポーランドやハンガリーの動きも重要な役割を果たした。ポーランドでワレサらの労働運動「連帯」の動きが活発化する一方、ハンガリーでは、89年1月~2月に社会主義国の先陣を切って集会・結社の自由化、政党結成の容認、党の指導性の放棄、党と政府の分離などを行った。5月にはハンガリー・オーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。6月には、ハンガリー動乱で処刑されたナジ・イムレ元首相の名誉回復を行うとともに、複数政党制の導入を決定して一党独裁を正式に放棄した。ニエルシュ党議長が「スターリン主義とプロレタリア独裁から決別する」と表明している。さらに8月の「汎ヨーロッパ・ピクニック」事件、9月のオーストリア国境の開放を経て、東ドイツからの大量の難民がオーストリア経由で西ドイツに入る流れを作り出し、11月のベルリンの壁崩壊を呼び寄せた。
体制を武力で倒すだけが革命ではない。逃げる民。多くの人々が難民として逃げ出すことでも革命は起こる。東欧革命の画期は、あのなだれのような東ドイツ難民流出で決定的になったように思う。(要するに、国民として暮らし働くことを止めるストライキだ。)
東欧社会主義の最後の牙城ルーマニアでも、強権的なチャウシェスク政権を打倒する革命(89年12月)は、ハンガリーの影響が強い西部ティミショアラやルゴジの街から発生している。同地域はハンガリーに近くハンガリー系住民も多いところだった。