「地球号の危機ニュースレター」533号(2024年11月号)を発行しました。

(東欧だより)サラエボの傷跡

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(人口42万) ©岡部一明

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(人口42万) ©岡部一明

もう一つの歴史的な場所

サラエボにはもう一つ、世界史的事件が起こった場所がある。1914年オーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者のオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、訪問中のサラエボ旧市街で、ボスニア系セルビア人に暗殺された。これをきっかけに第一次世界大戦が勃発したいわゆる「サラエボ事件」だ。世界史の教科書には必ず出てくる。

サラエボ市内中心部を流れるミリャツカ川。そこに多くの橋がかかるが、旧市街の山沿いに近いあたりのラテン橋(写真中央)の左側付近で、セルビア民族主義者の凶弾が大公夫妻の命を奪った ©岡部一明
サラエボ市内中心部を流れるミリャツカ川。そこに多くの橋がかかるが、旧市街の山沿いに近いあたりのラテン橋(写真中央)の左側付近で、セルビア民族主義者の凶弾が大公夫妻の命を奪った ©岡部一明
現在その暗殺場所は同事件に関する市博物館になっている。大公夫妻が乗っていた車を模したオープンカーが現場に置いてある ©岡部一明
現在その暗殺場所は同事件に関する市博物館になっている。大公夫妻が乗っていた車を模したオープンカーが現場に置いてある ©岡部一明

 実はその日(1914年6月 28日)、暗殺の試みは2回目だった。1回目は市庁舎(前述の写真)での式典に向かう大公夫妻車列への爆弾投げつけで、これは失敗した。式典後、その負傷者見舞いに一行はオープンカー車列で病院に向かった。暗殺未遂があったばかりなので、川に沿った道をいっきょに走り抜けてくる予定だったが、連絡ミスで、当初予定通りラテン橋のたもとを右に曲がってしまった。ちがうちがう、まっすぐ行くんだというポティオレク総督の号令で馬車が停まったところに偶然、暗殺集団の一人、ガヴリロ・プリンツィプが居た。自動車に身を乗り出し、至近距離から2人を撃った。

暗殺の現場を描いた当時の新聞記事挿絵。右手前の犯人プリンツィプが、車上の大公フェルディナントと妻ゾフィーを撃った。Drawing: Achille Beltrame, Domenica del Corriere (Italian Paper), Wikimedia Commons, Public Domain
暗殺の現場を描いた当時の新聞記事挿絵。右手前の犯人プリンツィプが、車上の大公フェルディナントと妻ゾフィーを撃った。Drawing: Achille Beltrame, Domenica del Corriere (Italian Paper), Wikimedia Commons, Public Domain

第一次大戦へ

 この暗殺事件の後、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の対立が深まり、7月28日に開戦。当時の勢力関係からセルビアにロシアが加担し、オーストリアにドイツ帝国が付き、やがて第一次大戦の全面戦争に拡大していく。オーストリア=ハンガリー帝国内ではセルビア系に対する暴動が起こり、ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアではセルビア系住民に対する虐殺も行われた。サラエボでは暴動初日だけで2人のセルビア人が殺害され、約1000件のセルビア系住宅、店舗などが襲撃された。

 一方で、セルビア人民族主義者の間ではプリンツィプは今でも外国支配にたたかった英雄だ。2014年のEU主催サラエボ事件100周年記念行事に対し、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人側(スルプスカ共和国)は参加を拒否。逆にプリンツィプの銅像を建てた。

 第一次世界大戦も、それを引き起こした暗殺事件も、ボスニア・ヘルツェゴビナではまだ「歴史」になっていない。当時からの民族対立がつい最近も悲惨な殺し合いとしてこの地の人々に降りかかったばかりなのだ。

岡部一明

『地球号の危機ニュースレター』
No.521(2023年11月号)

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