「地球号の危機ニュースレター」527号(2024年5月号)を発行しました。

(東欧だより)サラエボの傷跡

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(人口42万) ©岡部一明

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(人口42万) ©岡部一明

歴史的な街に銃痕が残る

 サラエボ地域は、ローマ帝国に征服されて以来、ゴート族、スラブ人などが居住していたが、サラエボの街が本格的に発展するのは1429年にオスマン帝国の支配下に入ってから。イーサ=ベグ・イサコヴィッチ知事の統治下で、1461年以降、現旧市街の基礎が築かれた。 近代において、オスマン帝国はロシア、オーストリア勢力に徐々に押されていき、1878年のベルリン条約でボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権はオーストリア=ハンガリー帝国に移った(1908年に完全併合)。このような歴史的経緯から、サラエボ地域は異なる民族、宗教が共存する多文化的環境が存在していた。

サラエボ旧市街の中心バシュチャルシヤ。商業の盛んな通り・広場で、周辺にモスク(左)やバザーがある。やや遠方の複数の丸い屋根がブルサ・バザールで、トルコのブルサからもたらされた絹織物が売られていた ©岡部一明
サラエボ旧市街の中心バシュチャルシヤ。商業の盛んな通り・広場で、周辺にモスク(左)やバザーがある。やや遠方の複数の丸い屋根がブルサ・バザールで、トルコのブルサからもたらされた絹織物が売られていた ©岡部一明
オーストリア・ハンガリー帝国時代の1894年に建てられたサラエボ市庁舎。1949年に国立・大学図書館に転換。1992年、サラエボ包囲の際セルビア勢力の砲撃により、150万冊の蔵書(貴重資料15万5000点)のほとんどが焼失した。1996-2013年に修復され、2014年に文化施設として再オープン。式典会場、コンサート、展示などに使われている ©岡部一明
オーストリア・ハンガリー帝国時代の1894年に建てられたサラエボ市庁舎。1949年に国立・大学図書館に転換。1992年、サラエボ包囲の際セルビア勢力の砲撃により、150万冊の蔵書(貴重資料15万5000点)のほとんどが焼失した。1996-2013年に修復され、2014年に文化施設として再オープン。式典会場、コンサート、展示などに使われている ©岡部一明
紛争当時、世界中から取材に来たジャーナリストの拠点となった「ホリデーイン」(現在はホテル・ホリデー)。前の通りが市のメインストリート「ズマイヤド・ボスネ(Zmaja od Bosne)通り」で、包囲したセルビア勢力から狙い撃ちが行われ、「スナイパー通り」とも言われていた。1995年までに1,030人が狙撃され、225人が死亡した(うち60人が子ど)©岡部一明
紛争当時、世界中から取材に来たジャーナリストの拠点となった「ホリデーイン」(現在はホテル・ホリデー)。前の通りが市のメインストリート「ズマイヤド・ボスネ(Zmaja od Bosne)通り」で、包囲したセルビア勢力から狙い撃ちが行われ、「スナイパー通り」とも言われていた。1995年までに1,030人が狙撃され、225人が死亡した(うち60人が子ども)©岡部一明
多くの建物は修復され、きれいになっているが、一般のアパートなどでは、戦争の傷跡がそのまま残っている。狙撃されて穴の開いた壁を街の至る所で見る ©岡部一明
多くの建物は修復され、きれいになっているが、一般のアパートなどでは、戦争の傷跡がそのまま残っている。狙撃されて穴の開いた壁を街の至る所で見る ©岡部一明
同上。残酷な写真よりも、こうして現実の中に残る傷跡を見ることで戦争の悲劇がリアルに伝わってくる。何気ない日常の中に突き刺さる銃弾 ©岡部一明
同上。残酷な写真よりも、こうして現実の中に残る傷跡を見ることで戦争の悲劇がリアルに伝わってくる。何気ない日常の中に突き刺さる銃弾 ©岡部一明
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