ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ユーゴスラビア解体の中で、1991年6月のスロベニア、クロアチア独立宣言に続き、1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。人口約430万人のうち44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人だった。セルビア人は独立に反対して北部に「スルプスカ共和国」を独立させ、ユーゴスラビア連邦軍とともに、ボスニア・ヘルツェゴビナ軍と戦闘状態に入った(セルビア人はユーゴスラビアの多数民族)。当初セルビア人、ユーゴスラビア連邦軍が優勢だったが、NATOによる空爆などが行われ、1995年10月にセルビア人側が停戦に応じた。
多くの地域で市民の虐殺が行われ、特に1995年7月には東部スレブレニツァで8000人以上のボシュニャク人が虐殺されるジェノサイドが起こった。首都サラエボも1992年4月から1996年2月までユーゴスラビア連邦軍、スルプスカ共和国軍により包囲され(「サラエボ包囲」)、市場への砲撃や街路への銃撃などで市民に多数の死傷者が出た。1万2000人が死亡、5万人が負傷し、うち85%は一般市民だった。殺害と強制移住で、市の人口は紛争前の64%、33万人に減った。
戦時子ども時代博物館
子どものための小さな戦争博物館もあった。「戦時子ども時代博物館」(War Childhood Museum)。こちらには残忍な写真や遺物はなく、子どもの普通の生活の中にどのように戦争が入り込んでいたかを物語風に示す。確かに子どものための、残虐さに訴えるだけでない展示館が必要だ。