コソボは都会だった
国境通過後、もう一つ驚いたことがあった。コソボが意外に都会的だった。国境を通過するまでは道も悪く、寒村であまり人家もなかった。それが検問を通ったとたん、街灯が明るくなり多数のお店やホテルが目に飛び込んできた。家々もセルビア側に比べて真新しい。道路さえこれまでの悪路とは違い片側二車線の高速道路になった。あまりに違うのでここは本当にコソボか、ドライバーに聞いたほどだ。確かにコソボだ、国境検問は1カ所で終わりだとドライバーは言う。
後で調べると、人口密度も、国境沿い諸郡比較で、セルビア側が40.6~90.1人/平方キロに対し、コソボ側は113.3~249.6人/平方キロ(2011年)。コソボ側に来て急に民家が増えたと思ったのはデータ的にも裏付けられる。
不思議だ。多くの犠牲を出したコソボ紛争(1988~89年)の記憶が生々しい。しかも、コソボはバルカンの山の中で、東南アジアで言えばラオスのように遅れてはいるがなつかしい風景のある土地と思っていた。ところが都会だ。標高はセルビア側平野の200メートル程度に対し、コソボ側は600メートル程。山の上に来たらそこに都会があった。 やがてバスは首都プリシュティーナに入り、本当の「都会」になった。バス・ターミナルから宿まで約3キロ歩くのだが、人通りのない夜道や野犬の出没を心配たが、とんでもない。中層ビルが林立し、ネオンや照明が明るく、高速道路に近い道路が縦横に走り、夜でも人がたくさん繰り出している。
これがコソボだ
典型的なバルカンの歴史
コソボはバルカンの典型だ。民族が入り乱れ、反目し、長く被支配の歴史を歩んできた。コソボの多数民族であるアルバニア人は紀元前1000年にはすでにバルカン西部に居住していたが、前8世紀に古代ギリシャの植民活動で都市がつくられていく。前3世紀にはローマ帝国の属州イリュリクムとなり、帝国が分裂すると東ローマ、後のビザンチン帝国に組み込まれ、6世紀頃からはセルビア人などスラブ人の進出でバルカン南西部に追われた。中世にはブルガリア帝国、セルビア王国などの支配を受け、15世紀初めからはオスマン・トルコに支配され、400年間イスラム帝国の統治下に入る。
オスマン帝国下でアルバニア人はイスラム化し、セルビア王国の故地ともされるコソボ地域に徐々に入植し、やがてそこの多数派になった。露土戦争(1877~1878年)でロシアがオスマンを破ると、セルビアがオスマンから独立。バルカン戦争(1912~1913年)でオスマンのバルカン半島支配が最終的に終わりアルバニアが独立した。戦時下の一時期、コソボ地域はアルバニア領になったが、すぐセルビア王国領に変わる。
第一次大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領下におかれ、戦間期はセルビアを中心としたユーゴスラビア王国に支配され、第二次大戦が始まる1939年にはイタリアに併合され、次いでドイツの占領下に置かれ、1945年にドイツが降伏すると今度はソ連に「解放」された。コソボはユーゴスラビア連邦の中核を構成するセルビア共和国内の自治州となった。
1989年の東欧革命の中でコソボのアルバニア人も独立を求めるが、セルビアは逆にこれを弾圧。それまで認められてきた一定の自治まではく奪する。アルバニア人は「コソボ解放軍」(UCK)を結成して武装闘争を行ない、セルビア側もこれを強硬に弾圧。「民族浄化」の危機が叫ばれ、数十万のコソボ難民が出る中で、NATOは1999年、「人道介入」でセルビアを空爆する。セルビアはコソボから撤退するが、今度はコソボ内セルビア人が報復を恐れ26万人が難民としてセルビアに出る。そして自治に向けた交渉がまとまらないままコソボは2008年、一方的に独立を宣言した。しかし今でも国連に加盟できていない。2022年3月現在、国連加盟国193カ国中、コソボの国家独立を承認したのは118カ国にとどまる。この連綿と続く被支配の歴史、不安定な地位問題など、コソボはバルカンの苦しみを典型的な形で体現し続けている。