「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

〈ロシアのユーラシア主義1〉 侵略の背景にグランド・セオリー

連水陸路で船を運ぶ人

連水陸路で船を運ぶ人。16世紀・コラ半島付近の地図の挿絵。Art: Unknown Author, public domain, Wikipedia Commons

自分の文化的基盤に回帰する心情

 どこでもだれでも、他所に強大で支配的な文化があるとき、自分の基盤、背景に強く寄り添おうとする心理がはたらく。日本人なら、欧米のようでない日本的な文化、日本的な何かがあるはずだ、と「日本人論」に強く魅かれる。日本とは何か、日本人はどこから来たか、日本文化の特殊性は? ありとあらゆる日本人論が論壇をにぎわし、書籍が本屋の店頭を飾る。

 人権と民主主義で常に批判される中国は、そのようなものは欧米的な価値観であり、アジアには別の価値基準があることを繰り返し主張する。我々他の「東洋」の国といっしょくたにされるのははなはだ迷惑だが、アジアでは欧米的な民主主義は成り立たたない、などと言ってくださる。中東諸国であれば、イスラム原理主義がその役を果たすだろう。イスラムの教えの基本に帰るという心象が彼らを突き動かす。

 ロシアの場合、それが「ユーラシア」だった、と理解する。ロシアはヨーロッパの東端だ。無理してヨーロッパ的な近代化に努力してきたが、しょせん無理だった。ロシアに帰ろう、と。東端であるがゆえに、その東に広大なユーラシアが広がっていた。このまったく新しい世界「ロシア―ユーラシア」に我々は存在している、とソ連以後のロシア人たちは目覚めた。まあ社会主義はもういい、正直ごめんだ、とは思っている。しかし彼らがロシア帝国から受け継ぎ社会主義の建前で保持した広大なユーラシアは、その一部が脱落したとは言え、遺産として残っている。その「ユーラシア」こそが我々が依拠する世界だ。ソ連崩壊の衝撃で茫然自失となっていたロシア人たちに、ユーラシア主義はそういう形で現れ、新しいアイデンティティを提供した。

ユーラシア世界を思い描いてまったく問題ないが…

 しかし、あらかじめ言っておけば、問題は極めて単純だ。ロシアが、ユーラシアに存在する多様な民族と対等に連携し、共同体をつくり、新しい文明を目指していくのは何の問題もない。そこにEU的な地域統合を模索するのならそれもいいだろう(2015年にユーラシア経済連合(EEU)が発足し、ロシアの他、ベラルーシ。カザフスタン、アルメニア、キルギスが加盟、モルドバ、ウズベキスタン、 キューバがオブザーバー参加している)。しかし、それが対等の共栄圏ではなく、あくまでロシアが中心になってまとめ、君臨する、時には武力に訴えて統率する、というのでは違う、ということだ。この違いは極めて明らかだと思う。帝国と共同体は違う。そして我々はそのような帝国的「統合」が決して成功しないし許されるものでもない、ということを近代史の中でとことん学んできたはずだ。

 広大なユーラシアへのロマンがどうしてウクライナその他への侵攻の論理になっていくのか。ドゥーギンの『Foundations of Geopolitics』の論理は極めて複雑で難解と言われる。それに分け入って解明する能力も胆力も私にはないが、まずは、簡単なことを簡単に理解したい。共同の世界はいいが帝国の支配はだめだ。

ユーラシアを支配したのがなぜロシアだったのか

 ロシアはヨーロッパの東端という不利な地政学的位置にあるが、逆に言うと、ユーラシアの東に進出していくには最良の位置にあった。リトアニアやポーランド、ドイツといった中欧勢力が東に進出していくには、他の勢力を押しのけて行かねばならない。しかし、ロシアの東には、彼らに匹敵する強大な近代国家勢力は存在しなかった。やすやすと大陸の東端まで帝国を拡大していくことができた。

 これはある意味、アメリカ合衆国と似ている。東部で成立した近代国家アメリカ合衆国は、西部に無限に広がる「処女地」に比較的容易に帝国を拡大していけた。先住民の抵抗にはあったが、軍事力で圧倒的に勝っていた。大陸中央部に別の近代国家、例えば「シカゴ共和国」や「ミシシッピー帝国」でもあったら、米国の西進はそう簡単でなく、むしろ「ミシシッピー帝国」が広大な米大陸を支配することになっただろう。「新大陸」であった事情が彼らに幸いした。中部や西部に、彼らに匹敵する近代国家勢力はなかった。

 米国の西部開拓を可能にしたのは、最初は馬車、そして究極的には19世紀後半の鉄道が決定的だった。これに対し、17世紀末までにシベリア東端に到達したロシアが用いたのは河川交通だった。ユーラシア大陸の北半分は広大な平地であり、大河がゆっくりと流れる。船による航行に適している。そして河川と河川の間は陸上を船をかついだりして移動させる「連水陸路」活用の技術がルーシの民にはあった。

 ユーラシア北部の河川は主に北極海方向に流れる。しかし、その支流をうまくつなぎ合わせれば東西方向にもある程度河川交通が連結する。ゆったり流れ湖沼・湿地も多いユーラシア河川はそれが容易だった。急峻な山岳地帯に阻まれることもない。ウラル山脈でさえ、最も勾配のゆるい所を行けば高低差150メートルくらいだという。冬は凍結する川も多いが、凍れば凍ったで氷上をそりなどで進めばかえって移動が容易だった。

モスクワからシベリアに至る主要河川交通ルート
モスクワからシベリアに至る主要河川交通ルート。Map: Kmusser – Own work using Digital Chart of the World data. Routes based on descriptions from Forsyth, James, “A History of the Peoples of Siberia”, 1992. Wikimiedia Commons, CC BY-SA 3.0

岡部一明

『地球号の危機ニュースレター』
No.525(2024年3月号)

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