「地球号の危機ニュースレター」526号(2024年4月号)を発行しました。

100万回言ったら

© 湯木恵美

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湯木 恵美

 母が亡くなったあと、私は文章が書けなくなりました。

 世の中にこんなにも切ないことがあるなんて、今更ながら知ったからです。今までよくもまあ知ったふうに、辛いだの、切ないだの、かわいそうだの、綺麗事を並べていたものだと。自分の書く言葉のひとつひとつが嘘くさくてなりませんでした。
 いつか終わりがあるとわかっていても、私は失わなければその本質がわからなくて、それが身に染みてわかった時には、もう取り返す事も、時間を戻す事も出来ない、そこは別の世界でした。

 朝が来て光が溢れて空がどんなに美しくても、そこに母がいない。月がどんなに綺麗でも、嬉しいことがあっても、そこにはもう大切な人がいませんでした。

 晩年、有り余る程あった時間を粗末に過ごしてしまった報いは、言葉では言い表せない程、恐ろしい虚しさと後悔という形でやってきました。時薬なんて、家の戸棚のどこを探してもなかった。1年半経った今でも、私は母に会いたくて、会いたくて恋しいままです。

 失った間際は、会う人、会う人に母親を失った切なさを訴えました。それはもしかしたら何か救われる言葉をくれるかもしれない、もしかしたら会う方法教えてくれる人がいるかもしれない、もしかしたら奇跡を教えてくれるかもしれない。そんな思いで誰にでも話しました。さほど親しくない人は、本当に戸惑ったと思います。かける言葉も見つからないとはこの事だと、問いかけている側の私が思うくらい、ご迷惑をかけました。

 ある人は、時が解決すると、またある人は順番だからだと、そしてまたある人は、逆だったらもっともっと辛いんだよと。一生懸命に言葉を選び、私を励ましてくださっているのにもかかわらず、私はもっともっと孤独で寂しくなるばかりでした。時が経って分かった事は、永遠にただ会いたく恋しいということ。時が経ちわかった事は、もう戻れない、失ったと言うことでした。私はおかしいのかとも思ってみましたが、これが本当の気持ちなのだからどうにもできない。それから私は、母の事を話さなくなりました。

 母と私は父の介護をしていました。父を精一杯の愛情で送ったら、私は少しゆっくりと母との時間を過ごせると勝手に決めていました。介護はやはり大変なものだったから、母に当たり散らすことが多かった。でもその後やってくる母との時間で取り戻せるものだと甘えた考えを持っていたのです。「あの頃は余裕がなくて悪かったね」なんて言いながら。

 それなのに父を残して突然入院した母は、コロナ禍だったこともあり、お見舞いすらできず、声をかけることすら許されず、あっさりと逝ってしまいました。沢山あったチャンスを粗末にしたからだと思っています。生意気な悪態ばかりついていた私に課せられたものは、この叶うことない恋しさなのかと思っています。

© 湯木恵美
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 元気だった母を失う、全く逆になってしまった現実に対して、ショックを受けたのは父も同じでした。もしかしたらこれほど辛いと思っている私よりも、その辛さは大きかったのかもしれません。

 母がいない父の介護。私が帰ろうとすると、父は必ず「あれ、あれどうした?母さん」と言いました。「死んじゃったじゃん、先行くよって、今頃おじちゃん達と一緒に天国で楽しくやってるよ」と、私は何とか泣かないように伝えました。それでも父は毎日、毎日、事あるごとに私に言うもんだから、私も切なすぎて、「あ、また言うな!」って、わかる瞬間に、他の話に変えたり、「じゃあね」って、大急ぎで帰ったりしていました。

 わかっているくせに、100万回言ったら、もしかしたら一回だけでも奇跡が起きて、「もうすぐ戻るよ」とか、「庭にいるよ、呼んで来ようか」とでも言うことを期待しているのが良くわかりました。

 腹立たしいやら、切ないやら。でも母の分もと思い、介護に必死で過ごしていましたが、意識が朦朧としてお医者様にもあまり長くないと言われる日はすぐにきました。

 旅立つ日、それでも何かを一生懸命言おうとしていることが母の事だと分かりました。100万回目ではなかったけど、私は父に言えることにほっとしました。やっと答えてあげられる。お父さんが一番言ってほしい答えを。

「お母さんに、もうすぐ会えるよ。こっちに来るって」そういった時、表情も作れない位衰弱していたのに、父はとても嬉しそうでした。私も嬉しかった。やっと言ってあげられた。

「お父さん、お母さん来るよ。美容院から帰ってくるよ」「詩吟の教室から帰ってくるよ」「庭の草むしりなんかしなくてもいいのにね。もうやめなって、言ってくるよ」「ご飯食べようって呼んでくるよ」「ゆりかに会いに行ってるから、そろそろ戻ってくるよ」時間をおいて、何度も何度も耳元で言いました。父はその度小さく頷くようにして嬉しそうでした。私はそんな父を見て私もいつか会えるんだと思いました。

 お母さん、生意気なことや悪態ばかりついてごめんなさい。

 お白湯、作っておいたよ、飲みなって言ってくれるのにいらないよって言って、でも次の日も同じこと言うから、そんなもんもういらないよって言ったら、それから言わなくなったね。ごめんなさい。お母さんは絶対に私を叱らなかった。絶対に私の味方だった。私がやりたいことを反対したこともなかった。本当に大切で大好きだったのに、伝えた事が1度もなかった。本当にありがとうございました。いつか会える日が来るまで、私は一生懸命にやるべきことをやっていこうと思っているから、それだけは大丈夫だから、心配しないで待っていてください。

 母は、私の書くものをいつも楽しみに読んでくれていました。

 だからまた書けると思います。大切と言う気持ちの対象は人によって違うかもしれませんが、それを失った時の喪失感がどれほどのものであるか、その本質を今の私は知っています。

 いつか会える日が来た時「ありがとう、大好きだよ」って言うからね。お父さん、お母さんにあんまり困らせちゃだめだよ。私たちのことを見ていて下さい。

© 湯木恵美
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湯木恵美

『地球号の危機ニュースレター』
No.525(2024年3月号)