「地球号の危機ニュースレター」526号(2024年4月号)を発行しました。

(東欧便り)アララト山はアルメニアの聖なる山

アルメニアの首都エレバンから見たアララト山(5,137m)。雲に隠れた右側 @岡部一明

アルメニアの首都エレバンから見たアララト山(5,137m)。雲に隠れた右側 @岡部一明

 トルコをずっと東に行き、コーカサス地方のアルメニアに来た。日本にはあまりなじみがないかも知れないが、南コーカカス(小カフカス)山脈周辺の内陸高原地帯に位置し、ノアの箱舟の伝説で有名なアララト山を国の象徴とする国だ。人口300万で、国土面積3万平方キロ。長野県、岐阜県、山梨県を合わせたくらいの広さだ。

 首都エレバン(人口108万)からアララト山が見渡せるので、いい写真を撮ろうと連日努力した。しかし、いつも雲がかかり、全体がよく見えない。最良で、上記か下記の写真だった。

エレバンの宿近く、St. Sargisアルメニア教会付近から見たアララト山。辛うじて山頂付近が見える @岡部一明
エレバンの宿近く、St. Sargisアルメニア教会付近から見たアララト山。辛うじて山頂付近が見える。朝早い方がよい。この日も午前9時を過ぎると頂上付近は雲に隠れてしまった
よく見える写真は、根気よくチャンスを待った他の方々の努力に頼るほかない。Photo: Serouj Ourishian, Wikimedia Commons, CC-BY-4.0
よく見える写真は、根気よくチャンスを待った他の方々の努力に頼るほかない。Photo: Serouj Ourishian, Wikimedia Commons, CC-BY-4.0

国の象徴が国外にある

 アルメニア象徴のこのアララト山が、実はトルコ領にある。アルメニア国境から約30キロ離れている。エレバンの街からゆるやかなカーブを描いて上昇していく裾野は美しいが、その途上(アラス川)に国境が引かれ、山本体にアルメニア人は近づけない。

 アルメニア人は「アララトの民」と呼ばれ、神話から様々な民俗に至るまでアルメニア人の心の拠り所となっている。アララト山頂はまた、キリスト教世界ではノアの箱舟がたどり着いた所ともされ重要な場所だ。アルメニアは301年、世界で最も早くキリスト教を国教に定めている(「アルメニア教会」)。アルメニアの国章、大統領章にはノアの箱舟が載るアララト山があしらわれている。ソ連時代の国章にはアララト山がさらに大きく描かれていた。そのアララト山が国外にあるという悲劇に、この民族のたどった不幸な歴史がある。

アルメニアの国章には、ノアの箱舟が載るアララト山が描かれている。Figure: public domain.

故地はアララト山周辺

 アルメニア人の故地はアララト山南西のヴァン湖周辺(現トルコ領、地図参照)。古代にアルメニア人は現トルコ東部からアゼルバイジャンなど広大な地域に分布していた。メソポタミア文明のチグリス川、ユーフラテス川の上流部分の民族と言える。

 東西交通路上にあり、通商にたけていたが、周辺強国の支配に翻弄される歴史を歩む。アケメネス朝ペルシア、ローマ帝国、パルティア、ササン朝ペルシア、ビザンツ(東ローマ)帝国、7世紀にアラビアに成立したイスラム帝国の征服をはさみ、さらにビザンツ帝国、セルジュク・トルコ、サファヴィー朝イラン、カージャール朝イラン、オスマン・トルコなどに支配された。 19世紀からはロシアの南下が活発になり1828年にロシア領。第一次世界大戦中のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺、ロシア革命、トルコ革命、一時期のアルメニア共和国樹立などを経て1920年、東アルメニア地域がソビエト連邦に組み込まれた。アルメニア人は現トルコ領を含む広範囲な歴史的アルメニアの領土回復を求めたが、当時の列強間力関係の中では、トルコとソ連の手打ちで定められた国境に従う他なかった。また、後述するようにトルコ領からアルメニア人が強制排除され、西アルメニアのアルメニア人はほとんどいなくなった。以後、第二次大戦、冷戦期を経て1991年にソ連が解体。国境線に大きな変更なくアルメニア共和国が独立した。

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