「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

(東欧便り)北マケドニア:アレクサンドロス巨大像が意味するもの

photo@岡部一明

テッサロニキ中心の独立構想

 ギリシャ国家がこれを見たら怒るだろう(もう見ているだろうが)。現ギリシャの北部、テッサロニキ周辺のマケドニア地域は、マケドニアとして、しかもその中心として独立すべきだったが、ギリシャに取られてしまったと言っている。マケドニアの民族自決は挫折させられたと言っている。じゃあ、君らこれを取り返そうというのか、という非難がギリシャからすぐ来そうだ。

 フェイクだと冗談めかして言っていた私も頭をガツンとたたかれた。民族の形成がフェイクのような形にしか終わらざるを得なかった理由、民族の形成を妨げられた不当性を、この展示は強く訴えていた。

 この博物館は、旧市街のはずれの分かりにくい所にあり、それほど立派な博物館でもない。アレクサンドロス大王時代のものを中心にした「考古学博物館」は、街の中心の立派な博物館だ。来館者もたくさんおり、スコピエの目玉博物館になっている。 しかし、近代資料を展示する「マケドニア博物館」は閑散としていた。私が来館している1時間半の間、他に一人の訪問者もなかった。話を聞いた博物館員が「若い人が興味をもってくれないので困る」と嘆いていた。

第二次大戦後、民族形成に挫折する

 展示の後半では、ギリシャ北部を中心としたマケドニア人が全体的な民族形成に失敗していく経過を詳細に分析している。

 新しく建国されたユーゴスラビア連邦の中にマケドニア人民共和国がつくられたことを歓迎する一方、ギリシャ内では独裁政治に反対するギリシャ民主軍(DAG)と連携して、マケドニア人の大衆組織「マケドニア人民解放戦線」(NOF)を結成してたたかった。

 解放区には「民族語で教える87の学校がつくられ、約1万人の児童生徒が在籍していた」という。

 戦闘が激しくなると、子どもたちの国外避難が行われ、1948年春から14歳以下の子ども2万8000人~3万人がユーゴスラビアなど東欧地域に散っていった。そして、結末は次の通り。

 「1949年7~8月のグラモス(Gramos)の戦いで米国の全面支援を受けたギリシャ国軍が勝利すると、DAGの残余兵55,881人はアルバニアに退避し、そこからソ連など東側諸国に散っていった。 内戦ではマケドニア人2万1000人の命が奪われ、5万人がギリシャの民族浄化策から逃れ難民となった。これが、この地域のマケドニア人が、ギリシャにおける民族的権利を獲得する夢の終わりを告げるものだった。」 

マケドニア難民たちの再会

 展示は、国外に逃れたマケドニア人たちのその後も追っている。特に、子どものとき諸外国に送られ大人になった人たちの再会の様子が下記のように記される。この博物館展示もそうした人たちの尽力によるところが大きいと思わせる。

 「1988年6月30日~7月3日、スコピエで、難民となった子どもたちの再会集会が開かれた。ヨーロッパ、オーストラリア、カナダ、米国などから約1万人が集まった。1989年12月23日には、スコピエで、ギリシャ下マケドニア地域出身のマケドニア人の再会を目指す「エーゲ海マケドニア子ども世代難民協会」が結成された。諸外国でも同様の団体を結成する動きが強まった。 その目的はマケドニア人としての民族的・文化的・言語的・歴史的アイデンティティ推進のため文化的精神的連携を獲得し、世界の他の民族とともに生きる現代の多文化的生活の中への統合を目指すことだった。」

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