岡部 一明
9割がチトーを尊敬している?
「どこから来たの?」体格のいい青年が話しかけてきた。先ほどチトー霊廟の前で写真を撮ってあげた若者だ。アジア系の私がわざわざチトーの記念館(セルビア・ベオグラードのユーゴスラビア博物館)に来て展示を見ているのが珍しかったらしい。
青年は、旧ユーゴスラビアの一部、マケドニア(現北マケドニア共和国)の出身だと名乗った。結婚して現在はアイルランドに住む。だから英語が流ちょうなのだろう。チトーを尊敬していて、その博物館に来たのだという。
今でも旧ユーゴスラビアの人たちはチトーを尊敬しているのか。社会主義時代への批判はないのか。「僕が思うに、旧ユーゴスラビアの人の9割はチトーを尊敬している」とその青年は言った。
確かにチトーを憎む理由はないかも知れない。多くの旧社会主義国の独裁者とその点は大きく異なる。「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われた旧ユーゴスラビアをカリスマ的なチトーの指導力がまとめていた。だから、チトーが1980年に亡くなると各地で分離機運が高まり、80年代末の東欧革命に押される形で、90年代には構成6共和国の独立、セルビアからのコソボの独立、そして民族間の殺し合いという悲惨な「ユーゴスラビア紛争」が起こってしまった。スロベニア十日間戦争(1991年)、クロアチア紛争(1991年 – 1995年)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年 – 1995年)、コソボ紛争(1996年 – 1999年)、マケドニア紛争(2001年)などで、計30万人以上が死亡し、避難民・難民の数は300万人以上に上るともいう。旧ユーゴスラビア人口の 1/6~1/7が難民になった計算だ。20世紀も終わりに近い、しかもヨーロッパのど真ん中でこんなことが起こった。
多くの東欧諸国で独裁打倒から自由への胎動が始まったのとは対照的に、ユーゴスラビアでは、地獄の民族紛争が起こってしまった。ソ連から距離を置き、分権的な自主管理社会主義を目指したチトーのユーゴ社会主義は、むしろ幸福な時代として記憶にとどめられておかしくない。
小さなEUの試みとしてのユーゴスラビア
ユーゴスラビアの地図を見ながら、青年は、「ユーゴは小さなEUだったんだ。」と面白いことを言った。彼の住むアイルランドがEUに所属している。出身地のマケドニアはユーゴスラビアに属していた。多様な民族がそれぞれ自治的共和国をつくり、ユーゴスラビアの連邦として集まっていた。失敗し瓦解したが、確かにそれはヨーロッパの東部につくられたもう一つの地域的統合の試みだったかも知れない。これまで、「東欧の一社会主義国」としかユーゴスラビアを見ていなかったが、なるほど、面白い視点だ、と感心した。