ロシア革命は、国内諸民族に「分離と独立国家の結成をふくむ自決権」を認めたが…
ロシア革命は一般には、民族自決権を明確に掲げた革命として理解されているし、事実その後の社会主義イデオロギーは、アジア・アフリカの民族解放闘争の強力な後ろ盾ともなってきた。少なくともアメリカや「西側」帝国主義に抵抗する第三世界の戦いに対してはそうだった。
1917年の10月革命と同時に発せられたボルシェビキの「平和に関する布告」は、帝政ロシアを含む交戦諸国の支配下にある地域と民族の解放を無条件で認めると宣言した。他の列強も民族自決は言うが「敵国の植民地民族に自決権を与える一方で、自国の植民地民族にこれを与えないのは帝国主義を擁護するに等しい」と1917 年12 月のボルシェビキ声明が批判している。「ロシア革命の世界史的意義」を強調する杉田聡は次のように指摘している。
「『平和に関する布告』とともに『ロシア諸民族の権利宣言』も、民族問題にとって、極めて重要である(新暦1917 年11 月11 日)。これまで本稿では、『民族自決』を漠然と、列強により植民化され支配された諸民族を念頭に置きつつ記してきたが、自決が権利として認められるべき民族は、ロシア国内にも少なからずいた。レーニンにとって国外の民族問題とともにロシア国内の民族問題も、帝国主義廃棄のために不可欠である。同宣言では、『ロシアの諸民族の平等と主権』、『分離と独立国家の結成をふくむロシアの諸民族の自由な自決権』が承認されている。」(杉田聡「ロシア革命の世界史的意義」『唯物論』2018年3月、p.139)
ウクライナの独立を「反革命」として弾圧した
国内の諸民族に「分離と独立国家の結成をふくむ自決権」を認めたにもかかわらず、革命の過程は必ずしもそうは進まなかった。1917年の2月革命でロシア帝政が倒れると、ウクライナでは、自治を求める諸勢力がウクライナ中央ラーダ(評議会)を結成。10月革命でボルシェビキが権力を取るとこれに従わず「ウクライナ人民共和国」の設立を宣言した。ボルシュビキは赤軍を派遣してこれの抑え込みにかかった。以後、反革命派、国外干渉勢力を交えた複雑な内戦状況が続くが、1921年末までには赤軍が勝利し、ウクライナはソ連邦に組み入れられる。
ウクライナの短い独立の試みは夢と消え去ったが、1991年ソ連解体後の独立の貴重な歴史的前提となった。現在の独立ウクライナの国旗は中央ラーダが定めた青と黄の二色旗、国歌はヴェルビッキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」、国章はヴォロディーミル聖公の「三叉の鉾」であり、「現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正統な後継者であると認識している」(黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』、p.200)。
ボルシェビキもレーニンも、自国内の諸民族に「分離と独立国家の結成をふくむ自決権」を認めていたのに、ウクライナの独立は徹底的に抑え込んだ。これに対しては、ロシア革命の「世界史的意義」を強調してやまない前出杉田も次のように指摘している。
「ただし、例えばウクライナ独立に対して革命政府が介入した事実は、いかにその背後にドイツや「白軍」がいたとはいえ、単純にこの[ロシア諸民族の権利]宣言を評価するのを躊躇させるものがある。特にレーニンがウクライナの独立の権利をはっきりと擁護していた(『レーニン全集』大月書店、20-441)だけに、なおさらである。」(杉田、前掲論文、p.148)
第二次世界大戦でナチス・ドイツとたたかった大祖国戦争は、ソ連・ロシアにとって輝かしい成功体験であり、実際ソ連は、1941年6月のドイツのソ連侵攻以来、2000万人という想像を絶する犠牲を払いながらドイツの侵略を食い止め、1945年4月に、東進してきた連合軍と「エルベの邂逅」を果たすまで、英雄的な戦いを行なった。米英などは1944年6月のノルマンジー作戦で西方からの対独攻勢を開始するが、これは遅すぎたとの批判もある。それまでにソ連は幾度となく西部戦線での対独戦開始を訴えていたが、ソ連への武器援助はするものの戦端は開かず、ソ連単独でドイツに抗戦する状況が続いていた。戦争での犠牲が政治的コストとして高くつく民主主義国では、戦いを第三国に肩代わりさせる誘因がはたらく。これでソ連の「大祖国戦争」は益々後光を帯び、ナチズム打倒の中心勢力としてソ連は戦後秩序の形成にも大きな力をもつことになった。
結果的にはそうなった。しかし、ソ連は初期において独ソ不可侵条約を結び(1939年8月)、むしろナチス・ドイツとともにヨーロッパの分割を企てていた。独ソ不可侵条約には密約があり、ドイツがポーランドに侵攻する代わりに、ソ連はポーランドの東半分を取り、さらにバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)とルーマニア領ベッサラビアも得るという合意があった。つまりソ連はナチスと組んで東欧を山分けしようとした。実際、1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻した16日後、ソ連がポーランド東部に侵攻した。11月30日には、密約にもなかったフィンランドにも侵攻しこれを制圧している(ソ連・フィンランド戦争)。ソ連は独ソ不可侵条約に密約があったことを長く否定してきたが、ゴルバチョフ政権時代の1989年末、秘密協定の存在を明らかにし、バルト三国併合も違法だったと認めた。
ドイツ共産党を壊滅させていたナチスが不可侵条約でソ連と組むとは考えにくく、この盟約は各方面に大きな衝撃を与えた。ソ連が中心となって世界的に進めていたはずの反ファシズム人民戦線もこれで崩壊した。
ドイツの侵略によるポーランド人の死者はユダヤ人も含めて600万人近くに上ったが、ソ連の侵略でも15万人のポーランド市民が殺害され、32万人がシベリアの強制労働に送られた。1940年4月頃の「カチンの森事件」では2万2000~2万5000人のポーランド軍将校、国境警備隊隊員、警官、一般官吏、聖職者が虐殺された。
皮肉にも、1941年6月、ヒトラーが独ソ不可侵条約を破って対ソ戦を開始するに至って、ソ戦は恥辱の歴史的判定を回避することができた。スターリンは、ドイツがソ連に侵攻しそうだとの内外からの警告を無視し、初期に大敗北を喫した。ソ連国民にとって筆舌に尽くしがたい不幸となったが、一方でこれ以降、ソ連が大きな犠牲を払いながら対ナチ戦の中心となることにより、歴史的に「正義」の側に付くことができた。
広い地平線に落ちる夕陽
今回、ロシアのユーラシア主義を調べているうち、古い記憶がよみがえった。
私が中学生の頃、つまり60年も前の1960年代、部活を終えて皆で立ち寄る駄菓子屋の店主は、満蒙開拓引揚者だった。いつもはその優しい奥さんを囲んでそこで飲み食いしたものだが、時折、そのおじさんの話を聞くこともあった。いかつい体つきで、ぎょろりとした目のタフなおじさんだった。
「満州はいいぞお。広い平野がどこまでも続いていて、そこに真っ赤な太陽が沈んでいくんだ。」
大方の会話は忘れたが、「満州」の開拓に行った若い頃の話を聞いて思い描いた情景が心に残る。「五族共和」の理念の下、開拓の精神に駆られて海を渡ったおじさんに罪はなかっただろう。ロマンあふれる青雲の志だった。だが、民族の共栄と言いながら、そこは大日本帝国が武力で支配する帝国の一部だった。正当な体制の下、正当な手続きで、例えばブラジルやアメリカに開拓移民として出ていくなら問題なかったろう(先住民抑圧の問題はあるが)。だがロマンあふれる「共栄圏」の夢はもろくも崩れ、おじさんも大変な苦労をして日本に帰ってくることになった。
今ではもう亡くなっているだろう。日本に帰り田舎の小さな雑貨屋の店主としてその後の人生を送って、彼は幸せだったのか。あの野性味あふれるおじさんのその後の人生を私は確認していない。
岡部一明
『地球号の危機ニュースレター』
No.528(2024年6月号)