「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

〈ロシアのユーラシア主義3〉 モスクワ起源ロシアは本当にロシアか

中世都市プスコフの民会(ヴェーチェ)の様子を描いた絵画

中世都市プスコフの民会(ヴェーチェ)の様子を描いた絵画 (Painting: Apollinary Vasnetsov, 1909, public domain, Wikimedia Commons)

マルクスのロシア・モンゴル影響論

 さらに激烈な言葉で、ロシアへのモンゴルの影響を叙述したのはマルクスだ。1856年の著作『18世紀の秘密外交史』で次のように言っている(邦訳は三一書房、1979年。2023年に白水社からも新刊)。

「タタールのくびきは、1237年から1462年まで2世紀以上つづいた。この幅はその餌食となった人民の魂そのものを、おしつぶすだけでなく、これを恥ずかしめ、枯らすものであった。モンゴルのタタール族は一貫した恐怖支配をうちたてた。荒廃と大仕掛けな虐殺がその制度となった。彼らの数は彼らの莫大な征服とは不釣合にわずかであったから、肝のつぶれるような暈をかぶせて大きく見せ、彼らの背後で反抗するかもしれない住民を大仕掛けな殺戮によってまばらにしようと欲した。」(p.112)

 マルクスによると、15世紀に、モンゴルの支配(タタールのくびき)からモスクワ公国が自立していく過程についても、決して正面から戦って独立を勝ち取ったのでなく、モンゴルのジョチ家に卑屈にすり寄り、ライバルのロシア諸侯をキプチャク=ハン国の力と威光で倒してもらった、奴隷の根性でライバルの告げ口を言い、モンゴルに賄賂を贈って操作し、その一方でタタールが内部対立で自壊していくのを待っていただけだ、などと論難している。そして結論は次の通り。

 「要約しよう。モスクワ国がそだち、成長したのはモンゴール奴隷制の恐るべき、卑しい学校においてである。それは奴隷制の術策の達人になることによってはじめて力をつけた。モスクワ国は、それが解放されてさえ、伝統的な奴隷の役割を主人として遂行しつづけた。」(p.125)

 この激しいロシア論難のため、すべてを網羅したとされるソ連版マルクス・エンゲルス全集にこの『18世紀の秘密外交史』だけは掲載されなかったとされる。

ピョートル大帝の欧化政策で転換

 モスコビアは、少なくとも16世紀のイヴァン雷帝の頃までは、モンゴルを範とし、その系列下に国家をつくろうと腐心していた。しかし、いつの間にかモンゴルの支配を「タタールのくびき」と嫌悪し、ヨーロッパを範にするようになってしまった。その大きな転換は、18世紀のピョートル大帝の時代(単独統治在位1696~1725年)に起こったと思われる。1721年に、20年続いたスェーデンとの北方戦争に勝利すると「ロシア帝国」を名乗り始めた。型破りのピョートルは1697~98年、皇帝でありながら自らヨーロッパ視察に出かけ、そこで刺激を受け積極的な西欧化政策を推進する。西欧技術者を招聘し、産業近代化を行い、ロシア貴族のあごひげを切るなど、風習、服装まで欧化を進めた。

 当時の大国スエーデンと戦う中で、1712年にバルト海に面した新都ペテルブルクを建設し、ロシアを大陸の辺境から西欧列強の一部に食い込ませる。バルト海交易ルートを確保し、バルチック艦隊を整備した。南方でも、アゾフ海に面したアゾフを攻撃し、黒海から地中海に至る南下政策の端緒も開いていた。明治以降、徹底した欧化政策(脱亜入欧)と軍事化にまい進した近代日本を彷彿とさせる。

モンゴルが民主化の先陣を切った

 モンゴル影響下で生まれたモスコビア、そしてロシア。ピョートルの欧化政策でも、農奴制が温存され、むしろ専制支配は強化された。ロシア帝国には様々にモンゴルの遺産がはらまされることになった。不幸にも、よりにもよってそんなところに人間解放の体制であるべき社会主義が成立してしまった。ここに20世紀社会主義の不幸とその失敗の原因を探ろうとする人も多い。

 むろん、それは今後とも検討すべき視点だが、留意すべきは、他ならぬモンゴル自身が1990年、東アジア社会主義の先陣を切って民主化を達成したことだ。ソ連、東欧の社会主義が崩壊した後も、中国、ベトナム、北朝鮮などの東アジア社会主義は堅固に存在している。その中でモンゴルだけは例外的に民主化を達成した。(以下、Alan J.K. Sanders, Historical Dictionary of Mongolia, The Scarecrow Press, Inc., 2010, pp.xxix-lxxviii、村井宗行「民主化運動はいつから始まりいつ終わったか」『モンゴル研究』19号など参照)

 1989年12月、ウランバートルで開かれた約300人の民主化要求集会を契機に民主化運動が高まり、3カ月後には数万規模の集会がもたれるようになった。数政党制、普通選挙、常設国会を求め、侵略者として否定されていたチンギス・ハーンを民族的シンボルとして復権し、ロシア文字(キリル文字)に代わるモンゴル文字の使用を唱導し、共産主義を示す星を削除した国旗を掲げた。1990年2月に初の野党「民主党」を結成。3月に、政権党・人民革命党(共産党)との話し合いを求める大規模集会を組織。「勝利」映画館前広場から党・政府機関本部のあるスフバートル広場にデモ行進し、党・政府指導部の解任を求める請願を提出した。

モンゴル・ウランバートル市のスフバートル広場

モンゴル・ウランバートル市のスフバートル広場(現チンギス・ハーン広場)。後方はモンゴル政府宮殿。1990年冬、ハンストや集会が行われ、モンゴル民主化の主舞台となった。

 国際情勢の後押しがあったことは確かだ。ソ連のゴルバチョフ共産党書記長がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進していた。1989年11月にベルリンの壁が崩壊したばかりだった。しかし、同年6月には、モンゴル国境からあまり離れていない北京の天安門広場で、民主化に立ち上がった若者たちが戦車に踏みにじられている。

 モンゴル政府部内では民主化運動を弾圧する動きも出ていた。しかし、バトムンフ党中央委員会書記長・人民大会議幹部会議長が、その命令書に署名するのを拒んだとされる 。3月9日午後7時から、市民代表と政府との交渉が成立。同書記長がテレビ演説で、次の党中央委総会で党中央委員会政治局は同局員解任を提起することを約束した。午後10時に民主化運動指導者ツァヒアギーン・エルベグドルジ(後に首相)が広場に集まった群衆を前に勝利宣言した。

 以後、政治局総辞職、憲法改正、複数政党制導入、ソ連軍のモンゴルからの全面撤退合意取り付け、初の自由選挙による国政選挙実施などが続く。最終的に1992年2月に、社会主義体制を放棄した新憲法を発布し、「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」に国名を変えた新国家を誕生させた。

 このモンゴルの民主革命がまったく非暴力で行われた。民主化運動指導者の一人、オユンゲレル国会議員は「この極寒の中で行われた民主主義のための日曜街頭行動の間、流血はなく、窓も割られず、殴り合いさえなかった」と書いているのが印象的だ 。鉄壁の抑圧体制と見えた社会主義国が暴力を伴わず民主化されたのは奇跡的で、多くの識者がこの点を強調している。「残虐なモンゴルの負の遺産」という見方に一つの留保となっているし、たとえ20世紀社会主義に何らかのモンゴル帝国の遠い影響があったにしても、それを変革する新しい民主化モデルは、少なくとも東アジアではモンゴルから始まった点を確認しておかなければならない。(詳しくは拙著『東アジア帝国システムを探る』第8章参照)。

 

岡部一明

『地球号の危機ニュースレター』
No.527(2024年5月号)

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