「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

〈ロシアのユーラシア主義3〉 モスクワ起源ロシアは本当にロシアか

中世都市プスコフの民会(ヴェーチェ)の様子を描いた絵画

中世都市プスコフの民会(ヴェーチェ)の様子を描いた絵画 (Painting: Apollinary Vasnetsov, 1909, public domain, Wikimedia Commons)

岡部 一明

ロシアをモスコビアに名称変更する提案

 2023年3月、ウクライナはロシアの国名を「モスコビア」に変更する検討をはじめた。2万5000名以上の署名を得た変更請願書を受け、ゼレンスキー大統領がシュミハリ首相に検討を命じた。英語でいうとRussiaをMoscovia(又はMuscovy)に、Russian FederationをMoscovian (又はMuscovite) Federationに変えるという提案だ。ロシア側はもちろんこれを拒絶。反ロシア思潮をあおっていると批判した。

 むろん、国名はその国自身が決めるもので、ウクライナが呼び方を変えてもロシアの正式名称が変わるわけではない。しかし、歴史的な検討を踏まえれば、これはなかなか説得力があり、興味深い主張だ。現行ロシアはもともと、キエフを中心としたキエフ・ルーシ(キエフ大公国、882年~1240年)の辺境で生まれたモスクワ公国を前身とし、1547年にイヴァン4世(雷帝)が初代ツァーリを名乗ってからもモスコビアと呼ばれていた。正式名称はなかったともされるが、歴史家の間ではモスクワ・ツァーリ国(日本ではロシア・ツァーリ国)と呼ばれている。それがピョートル大帝時代の1721年に「ロシア帝国」を正式に名乗りはじめた。

 ロシアの国名変更を求めるウクライナの人々は、「キエフ・ルーシ」が乗っ取られた、「国名が盗まれた」との主張だ。ウクライナを中心としたキエフ・ルーシは偉大な中世ヨーロッパ国家だった。スカンジナビア起源の同国は、最盛期にヨーロッパ最大の版図をもち、人口10万以上の首都キエフはヨーロッパの最大都市だった(パリは5万、ローマ4万、ロンドン1万5000)。これに対しモスコビアは、その東の辺境の小国でフィン・ウゴル語圏。スラブ語圏ですらなかった。むしろモンゴルの伝統を引いていた(後述)。

 キエフ・ルーシ、そのさらに起源のノブゴルド国などは、民会(ヴェーチェ)制度が重要な役割を果たし、何事も住民集会で決める共和主義的ルーシの伝統があったとされる。それを粗暴に乗っ取ったモスコビアは非ルーシ的存在で、これに「ロシア」を名乗らせてはならない、というわけだ。

中世リトアニアに受け継がれたルーシの伝統

 では、ウクライナは、ロシアに名称を乗っ取られながらも、ルーシの伝統をどのように受け継いできたか。確かにキエフ・ルーシの時代から現在のウクライナへの流れは必ずしも直接的ではなく、そこにモスコビアに「名前を奪われる」隙があったようにも見受けられる。

 前号の通り、12世紀に東地中海交易路がイスラム勢力から奪還され、内陸河川ルート「ヴァリャーグからギリシャへの道」、したがってまたキエフ・ルーシが衰退した。その中で、ルーシの伝統はまず西部のハーリチ・ヴォルイニ公国に継承されたと黒川祐次の『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)は解説する(pp.53-55)。この公国は、1240年にキエフ・ルーシがモンゴルに滅ぼされてからも約100年間続く。1340年代にその北半分ヴォルイニはリトアニアに、南部のハーリチはポーランドに併合。その後リトアニア大公国が発展し、キエフ・ルーシの伝統は大きく中世リトアニアに継承されていったとされる。

 バルト三国最南のリトアニアは、今でこそ小国だが、中世の一時期、現在のウクライナ、ベラルーシに相当する地域を含むヨーロッパ最大級の国だった。1362年にモンゴルのキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)をヨーロッパ勢で初めて破ったりもしている(青水の戦い)。このリトアニア大公国はリトアニア人は少数派(約1割)で、その主体はウクライナ人、ベラルーシ人など東スラブ人だった。支配層であったリトアニア貴族のスラブ化が進み、宗教はキリスト教(正教)に、言葉もルーシの言葉に変わっていった。つまり、

 「リトアニア人は『古いものは壊さず、新しいものは持ち込まず』との方針で臨んだ。またリトアニア人は少数だったため土地のルーシ系貴族を登用して彼らから歓迎された。こうして1~2世代のうちにリトアニア人は見かけも言葉もルーシ人のようになってしまった。このようなことから、後世のウクライナの歴史家フルシェフスキーは、キエフ・ルーシ公国の伝統はモスクワではなくリトアニア公国によって継承されたとしている。」(黒川、前掲書、p.63)

 そしてこのルーシ化したリトアニア大公国は、東北部で台頭してきたモスクワ大公国と衝突する。1368年から1372年にかけてのモスクワ・リトアニア戦争が起こる。リトアニアは3次にわたりモスクワに遠征するが、明確な勝利を得られず、逆に勢力を衰退させ、同盟関係にあったトヴェリ大公国を失うなど、実質的に敗北した。

 これでキエフ・ルーシを継承するウクライナ勢力の東方進出は挫折した。前述の通り、ヨーロッパのユーラシア東方への帝国拡大は、東端勢力が最もやりやすかったが、最終的にモスクワ(後のロシア)がリトアニア(実質的にウクライナ、ベラルーシ)を撃退することにより、その役割をモスクワが担うことになった。

13世紀~15世紀のリトアニア大公国

13世紀~15世紀のリトアニア大公国の拡大。現在のリトアニアの首都ヴィリニュスやカウナスの街があるあたり(ウグイス色地域)が13世紀頃の原リトアニアの領域。14世紀末には黒海にまで達している。現在のウクライナ領域、ベラルーシ領域の相当部分を包摂した。Map: M.K., Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5

命のビザ

リトアニアは日本にも馴染み深く、第二次大戦中、当時同国の臨時首都だったカウナスで、日本の領事代理・杉原千畝がナチの迫害を逃れるユダヤ人に「命のビザ」を発行し続けたところ。その日本領事館跡が現在、杉原記念の博物館になっている。その入口に写真のような「命のビザ」コピーがあった。カウナスは現リトアニアの中心に位置し、ネムナス川とニャリス川が合流し、古くから交通の要衝だった。ハンザ都市として大陸内部とバルト海沿岸との交易を担った

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