湯木 恵美
あっという間に5月です。
そしてあっという間に梅雨になる。季節の移ろいが早くて、なかなかついていけません。
私が描くものは、自分が体験したことを紡ぎ合わせています。だから、夢物語のようであっても、芯の部分は本当にあったことばかりです。
この時期になると思い出す出来事があります。
友人の小さかったときの話や、もう会えない人の話。
梅雨に入りかけたこの季節の私の思い出です。

© 湯木恵美
(君は言ったね。雨が好きなのは、お母さんが洗濯をしないから。ひとつ仕事がなくなれば僕を見てくれる。それにね、雨の日は、台所にいる時間が多いから、お母さんの背中を沢山見ていられるって。「さびしいの?」そう聞いたら、「僕はもう五年生になったんだよ。何だってひとりでできるから、平気なんだよ」って答えた。君はいい子だ。だから小さな魔法をかけてあげる。小さな小さな魔法だけどね。それは君だけに通じる秘密の魔法)
僕の5才上のお姉ちゃんに障がいがあるとわかったのは、まだ僕が生まれる前のこと。母さんはものすごく悲しんで、けれどお姉ちゃんを強く抱きしめた。それからすべてのものから守ると決めたんだ。僕が生まれてから母さんはもっともっと忙しくなった。お姉ちゃんのピアノの練習やそろばん、病院、お姉ちゃんにかかりきりの母さん。 仕方ないことだとわかっていたけど、その日は少しイライラしていた。友だちとけんかしたことを話したかった。母さんのために洗濯物を畳んだ。母さんの仕事がひとつ減ったら、その時間に話を聞いてもらおうと思った。窓の外に、母さんとお姉ちゃんの姿が見えた。ピアノの練習から帰って来た母さんとお姉ちゃんに「お帰りなさいって」って言ったら、お姉ちゃんは、僕が畳んだ洗濯物をぐちゃぐちゃにした。「あらあらお姉ちゃんは順番が気にいらなかったのね」母さんは笑ってお姉ちゃんの頭に手をおいた。僕はどうしてそんなことをしたのかわからない。友だちとケンカして、イライラしていたからだけじゃない。気がついた時には、お姉ちゃんを突き飛ばしていた。
母さんの叫び声と、お姉ちゃんが転ぶ音と、僕が玄関を飛び出す音が同時にした。雨の中を、傘を持たないで歩くのは初めてだった。雨が好きな僕のために、母さんが買ってくれた素敵な傘があるのに。軽くて丈夫な折りたたみの傘。だけど今はそれがない。雨に濡れた体が冷たくて、僕は近くにあったトタン屋根の農機具小屋に飛び込んだんだ。
誰もいない。機械油と土埃りの匂い。なんだかとても懐かしい。小屋の中を見回したその時だ。田んぼを耕すトラクターの運転席に、黒い子猫が座っていた。「あっ、君は幸せを運ぶ番人の猫」僕はびっくりしてそう叫んだ。「そうだよ、だけど雨の音がうるさくて、迷子になってしまったんだ。大きな声で呼んだって、雨の音で届かない」黒い子猫の鳴き声は雨の音に消されていた。僕はそっと、子猫を撫でながら聞いた。
「君は誰を呼んでいるの?」「誰を呼んでいるのかわからないんだ。僕の声が届けば、きっと迎えに来てくれる」子猫はとても寂しそうだったから、僕は優しく言ったんだ。
「大丈夫、きっとまた雨は止むよ」子猫は僕の肩に飛び乗った。その時「猫だけじゃない俺もいるよ」そんな声がして、奥から人が立ち上がった。僕は古タイヤの上にしりもちをついた。「おどろかせた?ごめん、でも俺の方が先客だよ、なあ、クロ!」僕より年上かな?中学生かな?少しかっこいいお兄さんだった。黒猫はひらりとお兄さんの肩に飛び移ってお兄さんの耳のところで、なにかこそこそ言っている。
「お母さんとケンカしたのか?」お兄さんが言った。黒猫はいつでも何でもお見通しだ。僕は猫をにらみつけたけど、知らん顔をしている。「お兄さんは誰?なぜここにいるの?」僕は聞いた。「俺はハルっていうんだ。今日はクロにさよならを言いに来たんだよ。何度も何度もここに来た。それでね、やっと探してた人に会えたから。この雨の音にも負けないくらい、力いっぱい呼んだら会えたんだ」「それ誰なの?お母さん?お姉ちゃん?」僕の質問にお兄さんは答えなかった。その代わり、僕の頭に手を乗せて笑った。
「クロ、今までありがとう。元気でな」そう言うと、お兄さんは帰ろうとしたから、僕は急に寂しくなって、お兄さんの手をひっぱった。「雨が止むまでいてよ」まるでずっと手を繋いでいたみたいに、強く握って離さなかった。お兄さんはびっくりしたように目を大きく開いて立ち止まった。
そんなお兄さんを見ていたら、なぜか僕はもっと寂しくなって大きな声で呼んだんだ。
「母さん 母さん 母さん」
それでもぜんぜん届かない。
「もっと大きな声で呼んでごらん」お兄さんに励まされて、呼び続けた。
トタンにぶつかる雨音が、リズムのように聞こえてきた時、僕は思い出した。ずっと前にもここへ来た。急に雨が降り出して、お姉ちゃんとふたりでこの小屋に入って、雨の止むのを待っていた。母さんが来るのを待っていた。泣き出しそうな僕の頭に手をのせて、お姉ちゃんが歌い出した。
お姉ちゃんの歌は楽しくて、いつしか僕も歌っていた。
「秘密の基地を知っている。幸せ運ぶ番人の、黒い子猫が休んでる」あの時みたいに歌ってみた。「面白い歌だな」お兄さんが笑った。黒い子猫がトラクターの運転席に飛び乗った。「お兄さんも一緒に唄おうよ」僕が言うと、今度は黒い子猫もいっしょに歌い出した。
「雨の降る日は基地の屋根、トタンの音がうるさくて鳴き声だって届かない」 歌の上手いお姉ちゃんが作ってくれた歌。お姉ちゃんと僕の秘密基地。
「お姉ちゃん!」大きな声で叫んだ。涙がボロボロこぼれて喉が痛かった。それでも僕は叫んだ。「お姉ちゃん!」その時だ、子猫がトラクターから降りた。お兄さんははっきりとした大きな声で言った。「俺はもう行くね。兄ちゃんが待ってるから。うんと頑張って兄ちゃんに会いにいかなきゃいけないんだ。それに…」「それになに?」僕が聞くとお兄さんは照れ臭そうに笑った。「みんなが待っていてくれる」そしてさっと外に飛び出した。
僕はお兄さんの後を追った。何かにつまづいて、転がるように小屋の外に出ると、遠くにびしょ濡れの母さんが走って来るのが見えた。お姉ちゃんも後ろから来る。僕はお姉ちゃんのそばまで走って行った。お姉ちゃんは大きく目を開いてから顔をくしゃくしゃにした。それから少し背伸びをして僕の頭に手をおいた。
いつの間にか、雨は上がっていた。僕は母さんの顔が見られなくて、母さんの後ろに回ろうとした。ごめんなさいと言うためだ。その時母さんの手がのびて、母さんが僕を抱きしめた。
僕は目を閉じていた。
母さん、僕は雨が大好きなんだ。母さんが洗濯物を干さないから。母さんの用事がひとつ減るから。だけどそんなことはもういいや。ねえ母さん、あの黒い子猫はどうしただろう。あのお兄さんは誰を探していたんだろう。お姉ちゃんならきっと知ってる。後でお姉ちゃんに聞いてみよう。お姉ちゃんならきっと知っているんだから。
目を開けると、母さんの肩の向こうに虹が見えた。
やっぱり僕は雨が好き。雨が上がるのを待てるから。

© 湯木恵美
「ほらほらこんなにびしょ濡れになって」黒い子猫のお母さんは、子猫と同じ真っ黒な猫で、ブルーと緑の、色の違う目を持っていた。「僕はあの小屋が好きなんだよ。いろんな人が雨宿りにやってくるんだ。また遊びに行ってもいいでしょ?」そう言う子猫を母猫は、優しくつつんだ。「まったく困った子ね、迷子にならないようにするのよ」子猫は、母猫のあたたかい腕の中から抜けると、まだ濡れている草むらの中に消えて行った。
「やれやれ、あの子は。。」呆れたような母猫は、けれどもどこか誇らしげだった。真っ黒な身体に雨上がりの光が差し込んで、まるで光に包まれているようだ。母猫は強くしなやかに大地を蹴ると、子猫と同じ草むらに消えていった。

© 湯木恵美
湯木恵美
『地球号の危機ニュースレター』
No.536(2025年5月号)