湯木 恵美
「J2に兄さんがいるんだ。今はまだ会えないけどね」ハルはいつからかそう言うようになりました。
特に、サッカーボールを蹴り始めると決まってそんなことを言い出します。小学生の時から地元のサッカーチームに入っているハルは、サッカーに夢中な、高校2年生です。
私はフリーのライターをしています。取材という形で、児童養護施設に出入りさせていただいているのですが、そこでハルと知り合いました。
初めて会った時、ハルはまだ小学校の低学年で、私を見付けると確認するかのようにちょこっとだけ手を繋ぎ、それからまた元気に走り回る明るい男の子でした。
大きな目と彫りの深い顔立ち。日本と他の国のハーフだとわかりました。
ハルの保護理由は置き去りでした。まだゼロ歳だった彼は、乳児院を経て、施設にやってきたそうです。本当はお兄さんどころか両親もわからないまま16歳になった今まで、寂しいとも言わないし、特に手を焼かせることもなかったハルが言い出したこのストーリーに、職員の方々は戸惑っていました。
「体、もっとでかくなるからって、でっかいジャージ買ってもらっちゃった。 案外伸びなかったな、俺」「スパイクは、兄さんが試合で履いたのだからさ」もちろんそんな事実はない。「次の試合に出られたら、応援に来るって言ってるんだ。ダメだろうな。またベンチだけかな」嘘じゃない。「今度、チームの練習ボール貰ってくるよ」願望なんだ。その想像が、その想いが、彼を頑張らせてきたのだとしたら、誰に何が言えるのでしょうか。自分はひとりじゃない。同じサッカーをやっているお兄さんがいる。身内がいる。ハルはその思いを糧にしていました。
そんなハルは今年、初めて試合に出させてもらうことができました。練習試合でしたが、PK戦では、きっちり決めて、ハルは嬉しかったんだと思います。試合が終わった後も、応援に来てくれていた施設の職員や学校関係者の元へ走っては、ハイタッチして回り、ポーズを決めました。失敗してしまったチームメイトの気持ちを考える余裕なんかないくらい、ハルは喜び「兄貴に恥かかせらんないから」ってはしゃぎ、そして祝福されました。ただそれの度が過ぎた。はしゃぎっぷりが一線を越える頃、一線を越えた声が飛んで来ました。
「おまえ、捨て子だろ!嘘ばっかつくんじゃねえよ!」人の表情が、一瞬にして固まり、そして崩れて行く様子を見たのは初めてでした。それが、私の大切なハルに起こった瞬間だなんて。変わっていったハルのあまりの形相に、言い放ったチームメイトも固まってしまいました。私も動けなかった。周りに居た誰もが、次の言葉を探すことが精一杯で、かといって言葉が思い付かず、その場に止まっていました。
その時でした。少し離れた場所から、こちらを気にしていた若い男性が近づいて来たのです。監督やコーチと話していたその人は、地元J2の有名な半田という選手でした。ハルをはじめ、すべてのメンバーを呼び集めました。「ちょっと来て!集まって下さい!」有無を言わさないキッパリとしたオーラがありました。すぐにみんなが集まりました。
「フィールドに立てば、年齢も、国籍も、環境も、境遇も、そんなものは関係ない。みんな同じ仲間です。この国籍だから許される、この年齢だから許される、この境遇だから許される、そういったことは一切ない!それがスポーツです。そこには、仲間に対する思いやりと信頼しか存在しない。仲間の失敗があったから、自分の成功があったのかもしれないし、失敗したのは自分だったかもしれない。チームはひとつです。だから誰の成功でも、失敗でもない。すべてチームの結果です。チームの結果はチーム全員で、心から受け止めるものです」 少年たちは真っ直ぐにその言葉を聞いていました。そう、それがスポーツなんだ。誰だからどうということはない。みんな一生懸命頑張っている。「もし、時間があるようだったら、少し試合をしようか?」半田さんの目線の先には、沢山のプロサッカー選手がいました。若いサッカー選手たちがあんまりにも若くて、応援に来ているお友だちか、チームのOBだと思っていましたが、試合を観戦していたかっこいい軍団は、現役のサッカー選手たちだったのです。半田さんを入れて12人も。なんでも最近は運営側に回った半田さんと、ハルたちの監督がお友だちだったとかで、こんなサプライズが用意されていたとのことでした。
ハルは真っ赤な顔をして直立していましたが、スタメンとして名前が呼ばれると、大きな声で返事をしました。「はい!」コートに向かって走ります。その時、チームメイトの一人が春に駆け寄って何かを言いました。なんて言ったかなんてわからない。だけど春はいつもよりもっと元気で、いつもより大きな声を出しながら、力いっぱい走り回っていました。
試合は一点も許されず、全力以上を出し切って、へとへとになっているハルたちをよそに、プロの選手たちは今度はもう一方のチームの高校生とプレーを始めました。休憩もせずにです。ハルたちは一丸となって応援に回りました。握りしめた拳。みんな喉を枯らして叫んでいます。
ハル忘れちゃだめだ。ハルには血を分けた身内はいないけど、仲間がいる。ハルたちは肩を組んで歌い始めました。いつか施設を出て、社会人になっても、仲間を忘れたらいけない。歌の合間に息のあった足踏みも入れています。すごい!グラウンドがひとつになって盛り上がっています。ハル、ハルはひとりじゃない。あなたにはこんなに沢山の仲間がいる。
記念写真を撮る段階で、半田さんがハルの肩を叩きました。「足、早いな! さっきのシュートも良かったよ!」 「ありがとうございます」ハルはちょっと泣いていました。そしてまたすぐに「誉められたー! 俺、誉められたー!」って叫びながら、拳を空に上げて振り回し、調子付いて走り回り出しました。まったく、懲りない子です。
青い空とグラウンドをみまわした時、遠くの草むらの中に黒い子猫を見付けました。もの珍しそうに、試合を見ていたようです。そう言えば、あの小屋に最近行っていないことを思い出しました。急な雨に降られて雨宿りをさせてもらった畑の隅の農機具小屋。その小屋は、とても懐かしい匂いがして、時々お邪魔していましたが、黒くてかわいらしい子猫がねぐらにしているものですから、運がよければ会えるのです。あの黒い子猫は元気かな?近いうちにいってみよう。私は青空にむかってうーんと伸びをしました。振り向くと、草むらの猫はいなくなっていました。
(優しい子には、ごほうびをあげましょう。頑張っている子にはそっと背中を押してあげましょう。寂しい子には、大丈夫だよって柔らかい光で包んであげましょう。小さな小さな魔法をつかってね)

© 湯木恵美
湯木恵美
『地球号の危機ニュースレター』
No.537(2025年6月号)