「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

彼女と虫と夏の思い出2 レンズを通して

© 湯木恵美

© 湯木恵美

湯木 恵美

 今年の夏休み、久しぶりに会った友人は大の虫好きだった。彼女から語られる虫の世界は非常に興味深かくて、それからと言うもの、私は虫のことが気になって仕方がない。

  彼女曰く、普段は見落としてしまっているけれど、すごく身近な処に少しガードされた形で虫ワールドがあるとのこと。例えば、人の歩く道の端や、病院や施設の庭にある小さな林。少しだけガードというのは、こんもりと茂っていたりして、入ろうと思えば入れるのに、それをうまく躊躇させてしまうように作られているのだと。

人間があえて見ない処からこちら側を見ている。そして虫ワールドの中に素敵な宝物が隠されている。ありえない話ではない。実際に本当は誰しも一度や二度経験していて「あれ?」とか思うのも一瞬で、気に止める事はしないで流してしまっているのかもしれない。

  沢山の物語は、一瞬の奇跡を流さなかった作家さんによって生み出されたのではないだろうか。 そこで起きた、自分だけしか気付かなかった音、匂い、声。引っかかった一瞬をヒントに生まれと思う作品が沢山ある。  

 宮崎駿さんや新海誠さんの映画を観た時、これ、知ってるって、思う場面があるのは、私だけではないと思う。いつの日か見たことがあるはずなのに、その時は流していた世界。

 今年の夏、散歩途中に林の中に生い茂った丸く突き出た塊を見付けた。蔦が隙間なく枝と枝を編んでいて、こちらからは普通の草むらの良くある風景だったけど、何となく違う。ここには、どんなものが隠れているんだろう?

  子供の頃は、躊躇なく入り込んでは、あちら側の住人と一緒になって、こっそりそこから人の世界を見ていたことがある。秘密基地のような狭い空間だけど、それはそれはとても楽しかった。

そういえばある日、引っかき傷だらけになりながら、入り込んだ薮の中で、不思議な光景を見た。白い傘をさした小さな神様が沢山休んでおられた。もう半世紀近く前のことだけど、私はこの風景を忘れられず、いろんな人に話したけれど、夢か幻か子供の頃の勘違いだろうと多くの人に言われた。けれど、私には確信があった。私は見たんだ。今でもその光景はビデオで写すよりも写真を撮るよりも、私の中に鮮明に残っている。

  虫好きの友人のおかげでそんなことを思い出し、思い切って蔦で編まれた草のドアを開けることにした。結構大変だった。やっと掻き分けて、片方の足を入れ、体を入れ踏み込んだ。中に入って行ったそこはタマゴダケと思われるかわいいキノコがいた。そしてタマゴダケの近くに1個だけ青く光るものがあって驚いた。撮影することさえ忘れていた。大切な瞬間、怪しい程美しい瞬間、写真を撮ったりしたら、きっと消えてしまうだろうし、写っていないかもしれないからこの瞬間を楽しんだ。

 傷だらけになりながら家に帰り、体中に着いた草の葉を取りながら、誰も信じてくれないんだろうなぁと思いつつも、誰かに話したくて仕方がなかった。こんな時、やっぱり写真を撮っておけば良かったと思ったけれど、撮らなくて良かったんだと思っている。心の奥底にしっかり焼き付けたから。  

 母を亡くした時、コロナ禍で、病室の中に入らせて貰えなかった。その部屋のカーテンを開ければお母さんがいるのに。当時は仕方なかったとはいえ、今思えば異常だった。

 けれど亡くなる前日に看護師さんが少しだけカーテンを開けてくれた。近くには行けなかったけど、母は「来てくれてたの?嬉しいよ」とやっとの思いで言ってくれた。お茶目な人で親指を立てて、「オッケー」と言うのが晩年の母のブームだったから、私が親指を立てると、母も同じ仕草をしてくれた。私は母にスマホのカメラを向けてその様子をおさめた。兄弟や父に見せたかったのだろうか?なぜそんなことをしたのか今はわからない。後悔しか残らない。

レンズなんか通さずに貴重な貴重な一瞬を自分の目で母を見れば良かった。母からすれば、スマホで隠された私の顔を見ていたことになる。馬鹿だったなぁ、私。写真を撮ると言うことに慣れてしまっている時代。そして私。大切なものは、直接見たほうがいいのに。しっかり瞬間を感じながら、自分の心と目に焼きつけた方が良いのに。今は本当にそう思う。  

 そう言えば先日、新聞に一般の方から「シャクジョウソウ」(錫杖)と言う植物についの投稿があった。神様からのご褒美と言うくらい珍しく、探そうとして探せるものではないと記されていて、資料写真が添えられていた。私が子どもの頃に、蔦で覆われた薮の中で見た小さな神様は、このシャクジョウソウだった。

 

湯木恵美

『地球号の危機ニュースレター』
No.532(2024年10月号)