「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

〈ロシアのユーラシア主義2〉 ロシアがユーラシア帝国になるまで

ユーラシア・アルタイ地方

ユーラシア・アルタイ地方 © 岡部一明

モスクワの台頭

 キエフ・ルーシの北東部辺境だったロストフ・スーズダリ地方(後のウラジーミル公国領域)は、文化も言語もルーシとは異なっていた。キエフが滅びた13世紀はもちろん、14-15世紀になってもフィン・ウゴル語圏であり、スラブ語が話されるようになるのは16世紀になってからだ(黒川、前掲書、p.26)。しかし、ウラジミール公国領域(そこからモスクワ大公国も生まれる)は、ウクライナよりさら欧州東端にあった。しかも、大河ヴォルガの水系とつながっており、ユーラシア河川交通網に入りやすい位置にあった(前号シベリア河川交通地図参照)。

 このためウラジミール公国地域は早くから河川交通によって東部への進出を始めていた。衰退していたキエフ・ルーシは1240年にモンゴルに滅ぼされ、ウラジミールもモンゴルに蹂躙されるが、その後、ウラジミール公国の一角にあるモスクワが徐々に成長する。1327年に、同公国内の権力争いでモスクワが勝利しウラジミール大公をモスクワ公が世襲するようになる。さらに、モスクワ公自体がモスクワ大公と呼ばれるようになり、モンゴル系のキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の庇護の下でルーシ全体を支配するようになる。

 モスクワは緑深い森林地帯の中にあった(今でも緑多い街だ)。モンゴルが侵攻したのは主にステップ草原地帯であり、馬で走破できない森林地帯は苦手で、あまり興味も示さなかった。ユーラシア大陸では中央部東西にステップ地帯が広がるが、その北は厚い森林地帯(タイガ)で覆われている。広大なユーラシアは一方では馬を駆使した遊牧民に支配され、その北の森林地帯では河川網に依拠した勢力拡大が行われた。

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1237年頃のキエフ・ルーシの版図。中央右・紫の領域がルーシ東北部ロストフ・スーズダリ地方。1125年にスーズダリが首都となり、ロストフ・スーズダリ公国と呼ばれる。1195年にはウラジミールに首都を置いた大公国が他公から認められ、ウラジミール大公国またはウラジーミル・スーズダリ大公国に。当時モスクワは小村であったが、1318年にモスクワ公ユーリー3世がウラジミール大公位を獲得した。(Map:Pline, CC BY-SA 4.0, Wikimedia Commons)

世界史は馬の時代から船の時代に

 モンゴルが馬による帝国支配を築いた最後の勢力だった。馬は、人間の移動能力を大きく超える力をもち、鉄道、自動車など機械力による移動が登場する以前、最強の輸送・軍事力として存在していた。馬は陸上をかけめるぐ力の象徴であり、だから過去の多くの偉人たちは銅像を「騎馬像」としてつくった。

 そして馬は、ユーラシア大陸に広大にひろがるステップ草原地帯に適し、その力を基盤に多くの遊牧民帝国が盛衰してきた。その中でも最大の版図をもち真にユーラシア帝国と言えるものを築いたのはチンギス・カーンのモンゴル帝国(13世紀)だった。これによりキエフも陥落した(1240年)が、しかし、北の森林地帯は遊牧民が不得意とするところで、そこに起こったモスクワは、ユーラシア大陸にもう一つ広大にひろがる河川網を基盤に次のユーラシア帝国を築いていく。

 新大陸の「発見」など「地理上の発見」時代以来、世界史は大きく海の時代に突入していく。海を行く船は、馬よりもさらに大量の物資を運び、馬よりもさらに多様な地域に自由に到達する。これによって大洋航路に面した西ヨーロッパが台頭し、世界的な植民地支配と産業革命・近代化の中心になっていく。極東の海の帝国・日本も台頭する。大西洋対岸側の海の帝国、アメリカが現在では最強の世界帝国となった。遊牧民の馬の時代は、モンゴル帝国を最後に永遠に終った。

 さて、この海の帝国の時代に、ロシア・ソ連は陸の帝国だと一般には思われがちだ。しかし、詳細に見て行けば、ユーラシア内陸でも、草原から水上へ、馬から船への革命は起きていた。ステップの北に広がる広大な森林地帯に遊牧民は入っていけず、そこから、無数に入り込む大河とその支流を航行する船により次のユーラシア帝国が勢力を伸ばした。

 もともとルーシの民は、スカンジナビアから河川ルートを伝ってウクライナ方面まで入ってきた水上の民であり、その一部がシベリア方面にまで支配を伸ばした。純粋に内陸出自で陸の帝国をつくったモンゴルと違い、ロシアは、海と水上から内陸に攻め入った帝国だった。

 1547年、モスクワ大公国でイヴァン4世(イヴァン雷帝)が、(大公でなく)史上初めて「ツァーリ」として戴冠する。ツァーリの語源は「カエサル」(シーザー)で、東ローマ帝国皇帝がそう呼ばれていた。モンゴルの君主ハーンもこの地ではツァーリと呼ばれていた。

 モスクワは、東ではジョチ・ウルスの末裔カザン汗国、アストラハン汗国を滅ぼし、シベリア方面への道を開く。西ではノブゴルドを征服し、バルト海勢力であるリトアニア大公国、次いでポーランド・リトアニア共和国とたたかった。

シベリアの毛皮貿易

 モスクワの成長を支えたのは国内化した植民地シベリアの収奪、特に17世紀に最盛期を迎えた毛皮貿易だった。広大なシベリアから無尽蔵の毛皮が産出され、それを先住民などから安く買い取って、ヨーロッパで高く売る。毛皮は「柔らかい金」と言われ、金に匹敵する利益率の高い商品だった。

「モスクワのシベリア征服へのわずかな投資には十分すぎる見返りがあった。新しい土地からモスクワに流入したクロテンその他大量の毛皮は、資金不足にあえいでいた国家に貴重な流動資産をもたらした。国内に金銀鉱山がなく、輸出できる農産物・工業製品も乏しい近代初期のロシア王政はこの毛皮売却に頼り、国庫向け貨幣・非貨幣貴金属を得た。」(John F. Richards, “Chapter 2. The Hunt for Furs in Siberia,The World Hunt: An Environmental History of the Commodification of Animals, University of California Press, 2014, p.68)

「モスクワは、オットーマン帝国領と西ヨーロッパへの毛皮の主要サプライヤーになった。イタチ、テン、クロテンなどの贅沢毛皮製品が人気を博した。ヨーロッパ、ロシアの商人が莫大な交易活動を行い、ロシアに毛皮代金の金銀を流入させた。」「英国商人はタール、木材、麻縄といった樹木産物、蝋、皮革などを、布地他の英国製品と交換で買い求めたが、それでも支払いきれず、残りは、多くの場合新大陸から持ち込まれた金銀で払わざるを得なかった。」(同書、p.56)

 多くのヨーロッパ列強が海外植民地からの富で近代化・産業化を準備する中、ロシアは、米国と同じように、国内化した植民地からの富で、この過程を歩んだ。

ロシアのバルト海進出

 1613年にロマノフ朝が成立。1682年に即位したピョートル1世(ピョートル大帝)は積極的な西欧化政策によりロシアの大国化を進めた。バルト海に面した都市ペテルスブルクを築き、1712年に首都を内陸のモスクワからここに移した。1721年に、20年続いた北方戦争でスウェーデンを破り「バルトの覇者」となった。

 内陸の弱小勢力だったロシアが、シベリア収奪で力を付け、バルト海に進出することで、明確に西欧列強となり、海の勢力の仲間入りを果たした。当時、西ヨーロッパは、地理上の発見以来「海の時代」が明瞭となり、高度な産業・技術をもった世界的勢力地域への道を歩んでいた。その一角に食い込むことで、ロシア大国化への方向は確実になった。広大なユーラシア内陸の収奪と、ヨーロッパの技術・産業・軍事を結合させ、帝国が拡大する。それまで南のステップ地帯遊牧民に軍事的に対抗できずにいたが、19世紀には中央アジアなどにも進出する。

 

岡部一明

『地球号の危機ニュースレター』
No.526(2024年4月号)

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