岡部 一明
ルーシ:スカンジナビアからギリシャへの道
シベリアへの進出ばかりでなく、そもそもルーシの国が成立する過程でも河川交通の技術は重要な役割を果たした。
スカンジナビア出自のヴァリャーグ(バイキング)がノブゴルドからキエフなどに進出する上で基礎となったのは彼らの河川交通技術だった。ヨーロッパ側のロシアは、後に進出するウラル以東同様、広大な平原が広がる大地で、大河がゆっくりと流れていた。
水上交通技術にたけていたヴァリャーグたちは10世紀までには、バルト海からネヴァ川、ラドガ湖、ヴォルホフ川を経てノブゴルドに入り、さらにその後ドニエプル川などをつたって黒海に抜ける交通ルート「ヴァリャーグからギリシャへの道」を切り開いた。次のとおりである。
「ヴァリャーグ人はハザール可汗国、イスラム帝国、ビザンツ帝国などとの交易の利益を求め、川に沿って南下していった。最初はヴォルガ川を下ってカスピ海に達するルートが使われた。後には北方の町ノブゴルドからドニエプル川上流に行き、ドニエプル川を下って黒海に出、海路ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに至るルートが確立された。それが「ヴァリャーグからギリシャへの道」といわれる「ドル箱」ルートとなった。」(黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、pp.32-33)
この「ドル箱」路線上の北にノブゴルドの街があり、南の、現在のウクライナ付近にキエフの街がつくられた。いわゆる「キエフ・ルーシ」のはじまりである。彼らは、黒海の南にあるビザンツ帝国を攻撃したりして領土を広げ、「バルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈に広がる当時ヨーロッパ最大の版図をもつ国をつくりあげた」。(同書、pp.38-39)
北欧やシベリア内陸の船を検討した赤羽正春は、北欧で発達したバイキング船はキエフを経て黒海などに進出していたことを示し、シベリアでもカルマー船、カルバッツ船などロシア人がもたらした船が使われていることを確認している。シベリアにも独自に発達してきた船技術があるが、その基層にあるより単純な「一人乗り、全長5m、両頭式、シングル・ダブルブレードパドル対応型」が逆に北欧型も含めて「北方船」技術の基盤になっているという知見も出してなかなか興味深い。こうした北方船は日本を含めた東アジアにも伝わり、そこで「南方船」と融合し、小型で足回りのよい船になっていったという。
なぜウクライナでなくロシアの帝国
しかし、ユーラシア支配に向かったのは、ウクライナでなく、ロシアだった。「キエフ・ルーシ」は途中で失速し、それにかわって、その東北辺境にあった(つまりヨーロッパのさらなる東端だった)モスクワ大公国から発展したロシアが、ユーラシア帝国主義を行なっていく。
なぜ「キエフ・ルーシ」は衰退したのか。11世紀末からの十字軍によってヨーロッパ人にとっての東地中海航路が回復され、地中海を経たビザンツ帝国、中東との直接交易が可能になったからだ。そもそも「キエフ・ルーシ」を勃興させた河川交通路「ヴァリャーグからギリシャへの道」がなぜ生まれたかというと、8世紀から9世紀にかけてマホメットのイスラム帝国が勃興し、ヨーロッパ人にとっての地中海東部航路が遮断されたからだ。イスラム勢力に妨害されない内陸ルートが必要となり、バルト海から黒海に至る河川交通路が開かれた。その交通ルート上にキエフ・ルーシ、つまりウクライナも繁栄した。
しかし、キリスト教世界は「聖地回復」の名目で11世紀末から約200年、7次にわたる十字軍を東方に派遣し、地中海東部航路を奪い返した。「ヴァリャーグからギリシャへの道」の必要性は相対的に低下し、さびれた。地中海貿易でベネチア、ジェノアなどイタリア商人が力をつけ、彼らは黒海北岸にも来て交易を牛耳った。ルーシを経て北方(バルト海)に向かう交易が低下する一方、そこから東方に向かうシルクロードの交易は繁栄した。ウクライナはユーラシアを横断する広大なステップ(草原)の西端にあたり、黒海から東方へのシルクロード「草原の道」がはじまっていた。
徐々に衰退していたキエフ・ルーシは1240年にはモンゴル帝国の侵攻でとどめをさされる。キエフ・ルーシによるユーラシアへの帝国拡大のシナリオは消滅した。それに代わって台頭してきたのがウラジーミル公国、そしてモスクワ大公国だった。