「地球号の危機ニュースレター」527号(2024年5月号)を発行しました。

ネットの中の人

© 湯木恵美

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湯木 恵美

 地域猫の問題は全国どこでもあるけれど、トラブルの半分位は猫に関係ないことが発端で起きている。猫に関するボランティアをしている私は、いろんな場面に出くわすが、中には人と人とのコミュニケーション内の問題で、猫は攻撃材料に使われているだけだと思うこともある。「あの家の猫だから嫌だ」とはっきり言われたことがあった。「他の家の猫なら良いんですか?」と冗談交じりで伺うと「もともと猫は嫌いじゃないから、他の家の猫なら良い」と。これが大人の発言かと呆れつつ、顔を見ながら会話なので笑ってしまった。何となく真意を考えることが出来る。ウマが合わないんだな、この人たち。   

 そんな事を思う中、私が住む地域の市長がSNSで地域猫容認の文章を投稿した。個人のSNSではあったが、トップがはっきりと発信した事は全国でも初めてだと思う。失礼ながら市長が特に動物が好きと言うわけではないと私は思っている。ただお腹を空かせたり傷ついたりしている生き物を無視、または殺してしまうことが、子どもたちの心にどんな影響及ぼすのか、また、人としてどうなのかを考えての思い切った発信だったと思う。そしてその発信には、市長の思いが小学生の描いたポスターと一緒にあげられていた。    

 この投稿は大変な反響だった。特に同じ思いを掲げる全国の動物のボランティアは非常に驚いた。発信に責任が生じるこの問題に、よくぞ切り込んでくれたと。あっという間に50万人のアクセスがあって、3000を超えるコメントが付いたのだから、本当にSNSとは便利だと思った。50万もの人に届け、3000件もの意見を募るのに、紙媒体を使えば人件費含めてどれくらいの費用がかかったのだろうか。それと同時に、顔が見えないネットの意見というものの信憑性はどれくらいあるのだろうかと考えた。

 私は、ネットで情報を見ても、コメントはほとんど読まない。 有名人が叩かれたり、ひどい時には死に追い込まれたりする事があるネットコメントと言う物は非常に問題だと思っている。それによって痛ましい事件が起きるたび、言いようのない怒りが押し寄せるが、こんな無責任な書き込み等見てやるものかと、開く事はなかった。しかし今回は違う。私たちボランティアの真意に理解を示し寄り添い、考えを放ってくださった市長へのコメントは見ない訳にはいかなかった。ひとつの意見として受け止めなければいけないと思ったからだ。

 賛成とまではいかなくても、命にどう向き合うかについての考えは評価しているというコメントを含めると、7割位が肯定と応援だった。一方3割の方の意見は否定的なものだった。猫の糞尿の被害に遭っている方もいれば、不妊去勢手術に反対な人もいた。動物が外を歩く事が嫌だと言う人もいて、その意見は様々だった。これは当然のことだと思う。いろいろな考えがあってこその発信だと思うし、全て肯定だったら返って気味が悪い。ただ、反対者の意見と言うのは、なぜこんなにもきつく、世知辛いのだろうと不思議に思った。同じ反対する意見を書くにしても、もっと書きようがあるのではないだろうか。 顔を合わせてもここまで言えるのだろうか。

© 湯木恵美

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 決して猫が可愛い、猫がかわいそうだけの発信ではない。不妊去勢手術をして殺さずに1代限りの命を見守っていくこと。糞尿の始末。多頭になる前にすべきことが、丁寧に書かれていて、ボランティア任せだった問題に行政が寄り添う姿勢を示したものだったけれど、そこは全く読んでいないなと思われる攻撃的なコメントが連ねらた。そしてその意見が、子どものポスターに向かってきた。小学低学年の子どもが描いた絵。それにどうやれば、ここまでの憎悪を向けられるのだろう。もはや、書き込んでいる本人も訳が分からなくなっているんじゃないかと思われるほどだった。

 少し前、コロナに感染した方の自宅が特定され、石やゴミが投げ込まれた。感染してしまったニュースキャスターは降板させられた。あの時世の中は異常だと思った。石を投げ込む人間も犯罪者だけど、降板させた人事も犯罪を肯定するものだと思った事を思い出した。 

 そうこうしているうちに、このポスターを書いた子どもの学校側から打診があった。市長の文章からポスターだけ外してほしいと。担任の先生と顔見知りだった私は、個人的に先生とお話しする機会があり、自分の気持ちを訴えた。「これからますますネット社会を生きていく子どもですから、これを機に、君達はまったく悪くない。こういう事を言う奴は必ずいる。でもそれを気にしてはいけない。君たちはそんな人間になってはいけないと、正しいSNSの使い方を教える絶好のチャンスではないでしょうか」とお伝えした。もともと子どもの気持ちをおもんばかっての発信がスタートだったのだからと。けれど市長の発信は全て削除となり、文章のみ再投稿されることとなった。これほど整備されないままにモンスター化したネット社会から子どもを守ろうとする学校の姿勢も理解できない事もなかったけれど、残念で残念でならなかった。    

 相変わらずアンチコメントは、3割ほど口汚く続いているが、ボランティアや、政策への攻撃コメントなので、私たちはもう気にはならない。 ただどれもふと思い付いたことを大衆の中、特定されない位置から、テレビでも見ながらソファーに横になり、なるべく嫌な言葉を探し、大した思いもなく書いているもののように感じる。決して反対しないでほしいと言うわけではない。反対意見には、反対意見のルールがあると思う。投稿にルールを守った反対意見なら、そこからまた何かが生まれると思っているからだ。

 いつからこんな仕組みができたんだろう。いつから誰にもわからないところから、人を傷つける方法が生まれたんだろう。いつから誰でもそれを使うようになったんだろう。人が死んでも構わないくらいの思いで書いているのかといえば、そうではないと思う。何も考えず発信する。そういえば「つぶやき」という意味合いを持ったSNSもあった。たとえつぶやくだけでも、使い方によっては本当に恐ろしいものだとわかってほしい。顔を見せず、責任のない文章が当たり前に全世界に向けて発信でき、その集計が重要視される世の中になった。それはどこまで正しい集計なのだろうか。

 大衆のつぶやきで人までも殺せる時代。それほど興味のないSNSについていろいろ考えさせられたこの頃だったが、とても美しい季節なのに、少し寂しく感じている。

© 湯木恵美

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湯木恵美

『地球号の危機ニュースレター』
No.527(2024年5月号)