「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

どんぶらこ取材こぼれ話 第75回 「永遠の青年」清水敏保さんのご逝去を悼んで

2012年8月、祝島の伝統神事「神舞」で太鼓をたたく清水さん

2012年8月、祝島の伝統神事「神舞」で太鼓をたたく清水さん ©山秋真

山秋 真

 9月1日の夕方、清水敏保(としやす)さんご逝去の報に接し、いまだ信じたくない思いでいます。

 「上関原発を建てさせない祝島島民の会」(以下、島民の会)の代表としてご尽力された清水さんと、初めてお会いしたのは2010年の9月でした。上関の原発計画が浮上して29年目ころだったと思います。

 やはり原発の新設にたいして住民が意を唱え、29年目にして計画の「凍結」をみた珠洲の、特産品である伝統的な揚げ浜式の塩田の塩を祝島初上陸の際お土産にお持ちしました。まつろわぬ民の経験の伝播と連帯の気持ちをこめたつもりでしたが、それにしても喜んでくださって。

 聞けば、清水さんは「珠洲に行ったことがある」というから驚きました。1993年の珠洲市長選挙の際、祝島から3人で能登半島の突端まで、応援に駆けつけたそうです。

 それは、原発問題が国政選挙の争点となったことのない日本で、市長選挙でありながら国論の争点を背負わされるかのような状況となり、現職候補が一旦は再選を果たしながら最高裁でのちに無効が確定して失職したほど熾烈を極めた、歴史的な選挙でした。反射的に「その選挙、私も応援にいっていました」と応じると、初対面のはずなのに、旧知の仲間と再会したかのごとき空気になったことを思い出します。

 それ以来14年、本当にお世話になり、たくさんのことを教えていただきました。ご一緒させていただいた経験は、どれも私にとって貴重な宝となっていますが、なかでも忘れがたい日々を少し挙げさせてください。

 ひとつは、2010年秋から2011年2月末まで。それは、上関原発をつくるための海の埋め立てが、はじまろうとしていた時期でした。

 原発の予定地である上関町の長島の田ノ浦(祝島の対岸)へ、埋め立て工事のために作業台船が近づこうと海を航行してきては、それに気づいた祝島の船が駆けつけて「帰って」と訴え、台船が去るまで沖で対峙をつづけるという、非日常が常態化していました。清水さんの船「清水丸」は、ほぼいつも駆けつけていた数隻のひとつ。それに同乗させてもらって船上取材をつづけた経験は、かけがえのない私の財産になりました。

 それについては拙著『原発をつくらせない人びと−−−祝島から未来へ』(岩波新書)で詳述していますから、ここで繰りかえしませんが、船上で録音・録画したやりとりを帰港後に文字起こししながら清水さんの言葉に胸打たれて涙することが、実は何度もあったことだけ、あらためて記しておきます。祝島の方々が原発の計画にあらがって行動すること、それは祈りの実践なのだと、その後ろ姿から私は学びました。

 もうひとつは、2013年2月から2018年3月末まで。第二次安倍政権が発足した直後からはじまる、祝島の漁民の方々が再三再四、上関原発をつくるための漁業補償金の受けとりを強要されていた時期にあたります。

 あのころ清水さんは、島民の会の代表に就いて1年ちょっとと日も浅く、前任者からの引き継ぎなどでもご苦労が少なくない様子でした。それに追いうちをかけるかのように、漁業補償金の問題が深刻化していったのです。

 お会いするたびに、お顔が苦悶に満ちていくようでした。まわりの人びとが「永遠の青年」と称したほど、爽やかで悠々とした空気をまとっていた清水さんの変化は、傍目にもツライものがあり、陰ながら私も心配したものです。

 ところが、清水さんの真骨頂は、危機にこそ発揮されることになりました。

 海上運送業に従事する清水さんは、もともと漁協の組合員ではありました。ただ、(発言権のある)准組合員ではあっても、(議決権のある)正組合員ではありません。

 そうした状況も影響したのでしょうか、この漁業補償金の問題では、清水さんの姿勢にほんの少し腰の引けている感を覚えるときがありました。私だけでなく、清水さんを支え、ともに歩んできた祝島の方々のなかにも、そう感じるという声はありました。それは致し方ないことかと思ったりしつつも、それでは迫力に欠けかねない面も否めず、悩ましかったことも事実です。

 そんなある日、「漁協の正組合員を目指す」という言葉を、清水さんの口から聞いたのです。それも、大仰な宣言をするわけでなく、平常心で淡々と「ワシ、ちょいちょい沖に出ちょるんよ」からはじまり、「凪やったら沖へ出て、魚釣って、(漁協へ)伝票もってって」とつづけてから、「正組合員になろう、思うてね」と結ぶ、簡潔な一言でした。

 漁に出るだけでなく、釣った魚についての伝票を漁協へもっていくのは、祝島で漁協の正組合員となるためには一定の期間内に一定の漁業操業実績をあげることが必要とされるから。だから正組合員になりたいと願うなら、当然やらなければいけないことではあります。

 ただ、清水さんは当時すでに海上運送業という本業にくわえ、上関町議会の議員として、島民の会の代表として、さらに祝島の消防団の団長として等など、大事な活動を幾重にもこなしてらした。それこそ、ご飯もお風呂も5分で済むと、かつて私も聞いたことがあるほど、超ご多忙な毎日だったはずです。

 それ以上を清水さんに求めることは、きっと誰もできなかったのではないでしょうか。言いかえれば清水さんは、ご本人にしかできない重い決断を、見事なほど朗らかに軽やかに、なさったのだろうと思います。気がつけば着々と、正組合員におなりになっていました。

 これは特に顕著な一例でしたが、清水さんは本当に、率先して動く方でした。その姿がおのずと人を動かし、「原発に同意はできない」と力を合わせようとする人びとを支えたように思います。そうして祝島の方々が、上関原発をつくるために必須の手続きである漁業補償金を受けとることなく、一貫して声をあげつづけていることは、皆さんご承知のとおりです。

 2021年の師走に清水さんと電話でお話しした際、検査でポリープが見つかったため年の瀬に手術をうけると伺い、遠くから私も案じていました。2022年10月に新型コロナの流行以来2年8ヶ月ぶりにお目にかかると、お痩せになったとはいえ表情にも声にも気力の衰えを感じさせるものはなく、「永遠の青年」と呼ばれた存在感も健在で、安堵の息をつきました。

 もっとも、体調は山あり谷ありと伝えきき、ご快癒を引きつづき祈っておりましたら、今年6月に祝島で、清水さんが緩和ケアを医師からすすめられたこと、そのため島民の会の代表も消防団の団長も退くことを耳にして、文字どおり私は絶句することになったのです。

 ところがその直後、たまたま少しだけお話する機会に恵まれると、清水さんはいつもの口調で「明日の朝の調子がよければ(上関町議会の)傍聴にワシも行くけぇ」とおっしゃって、「とんでもない、無理しないでください」と思わず懇願しつつ背中を見送って−−−それが清水さんとお会いした最後となりました。

 その晩も、その翌晩も、ひとりになると泣けてきて私は涙をぬぐったチリ紙を机の上に山と積みました。

 清水さん、早すぎます。まだ60代ではないですか。清水さん、悔しいです。「原発の問題が終わらんと、死んでも死にきれんのじゃけぇ」と昨年、原発の使用済み核燃料のゴミ捨て場の問題で紛糾する上関町議会を傍聴したあと西哲夫町長に訴えてらした、その言葉が耳の中でこだまします。

 清水さん、残念です。上関の原発が止まったら、みんなで別府へ行って温泉に入りましょうと、楽しみにしていたのに。

 全身全霊をかたむけて遠い海上へ目を凝らし、近づく船の人に語りかけていた背中を忘れません。祝島の暮らしを守ることを通して、同時に生命の海、みんなの海を、長らく守ってくださった。その祈りを受け継ぐ者のひとりになりたいです、私も。  いまはどうぞ、安らかにお眠りください。ありがとうございました。

*本稿は一般財団法人上野千鶴子基金の助成を受けた取材活動を土台に執筆しています。

山秋 真

『地球号の危機ニュースレター』
No.532(2024年10月号)