ウクライナ独立まで
以後の現ウクライナへの流れを簡単に見ておくと、リトアニアはポーランドと連合国家(同君連合)を形成しながら、最終的に1569年に「ポーランド・リトアニア共和国」となった。ポーランド色の強い国家だった。それに対するウクライナ・コサックなどの抵抗が続くが(1649年に彼らの「へーチマン国家」成立)、その過程でロシアに庇護を求め、徐々にロシアの影響力が強まる。1765年にへーチマン国家は正式にロシアに編入。さらに18世紀後半の3次にわたるポーランド分割で現ウクライナ領域はの大半はロシアに併合された。
1917年のロシア革命時にウクライナ独立運動が高まり、ウクライナ人民共和国や西ウクライナ人民共和国が成立するが、赤軍により駆逐。1922年にウクライナ社会主義ソビエト共和国としてソビエト連邦の一部に組み入れられる。第二次大戦中も独立運動があったが、ドイツ、ソ連双方によって抑えられ、戦後は、西に領土を拡大した「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」が連邦内でロシアに次ぐ重要な共和国となった。1991年のソ連崩壊の流れの中で独立を達成する。
ポーランドからのロシア史観
ウクライナは、ポーランドとも様々な点で歴史観を異にするが、ロシアをルーシ圏外の勢力とみる史観は、ポーランド史学界から受け継いでいる。19世紀のポーランドの歴史学者ヨアヒム・レレヴェルが1839年刊行書で、モスクワ大公国にはじまるロシアは、ルーシの伝統からはずれたもので、むしろモンゴル的世界に存在する、という論を最初に提示した。ウクライナでこのような史観が登場するのは1861年、ニコライ・コストマーロフの論文「ルーシの2つの民族」以降だ(以下、カタジナ・ブワホフスカ「歴史をめぐる論争/同時代をめぐる論争」『東欧史研究』第35号参照)
一般的なロシア史は、まずキエフ・ルーシからはじまり、その東北部、ロストフ・スーズダリ地方に生まれたウラジミール大公国、特にその中のモスクワ大公国によって受け継がれてロシア帝国、ソ連に至る、という流れで語られる。キエフ・ルーシ本体の方は、ロシア人歴史家の見解ではモスクワ、ロシアに受け継がれたことになっている。ウクライナ人歴史家の見解では前述の通りハーリチ・ヴォルイニ公国に受け継がれ、リトアニア大公国、さらにはポーランド・リトアニア共和国(1569年~1795年)に包摂されたとする。これを、特にロシア側から見て悪く言うと、カトリックのポーランド文化に正教のルーシ文化が侵されていったことになる。「タタールのくびき」に対して「ポーランドのくびき」という言葉があり、このポーランドからの束縛は、「タタールのくびき」が伝統内部にさほど介入しなかったのに比べ、より悪質だったとする。だから、18世紀末の3次にわたるポーランド分割などで、元のルーシ地域がロシアに割譲されたのは西ルーシの解放であり、ルーシの一体性の再興なのだ、とまで主張された。
しかし、レレヴェルによれば、キエフ・ルーシの東に生まれたウラジミール大公国、モスクワ大公国(モスコビア)こそがルーシではなく、「そこにさまざまな系統の人びと、ウゴル人、スラブ人、ブルガール人、ヴォルガ流域の人びとを招いて交わらせ、彼らとともに東方へと退いて、西方との結びつきを打ち捨てた」のであり、「ルーシとは異なる何ものかを創りはじめた」存在だった。「ルーシ」が「ロシア」になったことについても、「自分たちの国をルーシと呼ぼうとしても発音することができずにロシアと」呼ぶ他なかったとしている(同論文、p.22)。
ポーランドにしても、キエフ・ルーシにしても、貴族共和政体をとっていたノブゴルドにしても、スラブ的ルーシの伝統は平等的、共和主義的で、すべてが集会で決まり、公・大公も集会に従い、集会によって退けられることもあった。しかし、ウラジミール、モスクワはジョチ・ウルスのモンゴル専制権力に従い、それを巧妙に利用しながら政敵を倒してのしあがり、モンゴル権力が弱まると自立し自身が専制化してツァーリの支配体制を築いた。ブワホフスカはレレヴェルの歴史観を次のようにまとめている。
「レレヴェルは、ハーンの保護を享受したツァーリ的体制は完全にヨーロッパとの接触から切り離されており、モンゴル帝国に統合された一部分となったことを強調している。14世紀初頭以降、ツァーリ的体制の主たる中心となったのが、モスクワであった。そして、まさしくそこにおいて「タタールの力によって支えられた絶対主義が[…]怪物的な顔をもたげ、そのまなざしがスラヴ・ルーシ的な自由の感覚を麻痺させ、その命を奪っていったのである。」「このモスクワ的類型の性格を最終的に規定したのは、モンゴルの軛であった。その結果として、共同性、従順性、拡張主義を特徴とするロシア民族(大ルーシ民族)が成立した。それは、根本的に非スラブ的な民族であった。」(ブワホフスカ、前掲論文、p.13)
確かに、12世紀にウラジミール公国を建国したアンドレイ・ボゴリュブスキーは徹底的にキエフを破壊したし(1169年)、それはキエフ・ルーシを継いでその大公になるためでなく、敵としてのキエフをただ破壊するためだった。「ルーシから出たリューリク家のいかなる支配者にとっても、このような振る舞いは思いも及ばぬものであったろう。彼らにとってキエフは、あこがれの首都―『ルーシのすべての都市の母』だったのだから。」(同論文、p.12)
そして、ウラジーミルから生まれたモスクワ大公国は、モンゴル(キプチャク汗国)に臣従し、他の公国に対する徴税を請け負う役割まで果たした。モンゴルに擦り寄りながら自己の地位を高めた。自立してツァーリをかたり始めてからの恐怖政治と専制主義は確かに非スラブ的なものであったかも知れず、ロシア帝国、ソ連、プーチンのロシアに至る流れの中に、「ルーシとは異なる何ものか」を嗅ぎ取ることは可能かも知れない。
日本の中国史家・岡田英弘も、ロシアがモンゴル帝国の影響下でつくられたことを次のように説明している。
「モンゴルの支配下に、ルーシの文化は飛躍的に成長した。モンゴル人が人頭税の徴収のために戸籍を作り、徴税官と駐屯部隊を置いてから、ルーシの町々は初めて徴税制度と戸籍制度を知り、自分たちの行政機関をもつようになった。ルーシの貴族たちは、黄金のオルドへの参勤交代の機会に、ハーンの宮廷の高度な生活を味わい、モンゴル文化にあこがれるようになった。彼らは他のルーシとの競争に勝つために、モンゴル人と婚姻関係を結んで親戚となるのに熱心であった。またモンゴル人のほうでも、仲間との競争に敗れたモンゴル貴族には、ルーシの町に避難して、客分となって滞在する者もあった。政治だけでなく、軍事の面でも、ルーシの騎兵の編制も装備も戦術も、まったくモンゴル式になった。ただ一つ、宗教の面では、ルーシはモンゴル人のイスラム教は取り入れず、ロシア正教を守ったが、そのロシア正教でさえ、あらゆる宗教に寛容なモンゴル人が、教会や修道院を免税にして保護したおかげで、それまでになく普及したのである。そういうわけで、500年のモンゴルの支配下で、ルーシはほとんど完全にモンゴル化し、これがロシア文明の基礎になったのである。」(岡田英弘『世界史の誕生』ちくま文庫、p.232)
モスクワ大公国がキプチャク汗国を倒し自立してからも、モンゴルの威光は観念の中にずっと残る。イヴァン4世(イヴァン雷帝)は1547年に初代ツァーリとなったが、1574年に一旦退位し、チンギス・ハーンの血を引くジョチ家の皇子シメオン・ベクプラトヴィチ(モンゴル名サイン・プラト)を全ルーシのツァーリ(ハーン)とし、1576年に改めて譲位を得てツァーリとなった。岡田は「イヴァン四世がわざわざ、こんな面倒な手続きを踏んだのは、『チンギス統原理』に従えば、チンギス・ハーンの血統の男子でなければハーン(ツァーリ)にはなれないので、モンゴルの皇子から禅譲を受けるという形式をとって、モスクワのツァーリの位に正統性を付与した」(同書、235ページ)とし、ロシアが少なくとも形式的にはモンゴルの継承国家の一つだったことを示した。