「地球号の危機ニュースレター」532号(2024年10月号)を発行しました。

どんぶらこ取材こぼれ話 第72回 珠洲と地球と人類 〜2024年能登半島地震の震源近い高屋の人びと〜

高屋からのぞむ海 ©山秋真

高屋からのぞむ海 ©山秋真

山秋 真

 能登半島地震で被災された皆さまに心からお見舞いを申しあげます。残念ながらお亡くなりなった方々にも謹んで哀悼の意を表します。

 石川県能登地方で2024年1月1日16時06分に、つづいて16時10分に発生した地震は、それぞれマグニチュード5.5(最大震度5強)とマグニチュード7.6(最大震度7)という揺れで、大津波警報も発令されました。震源は、またしても能登半島の突端の日本海側、石川県珠洲市高屋町のすぐ近くです。

 2003年まで珠洲市には原発の建設計画がありました。こちらで昨年6月にお伝えした通り、原発をつくるときは全戸移転とされていたのが高屋町です。

 珠洲の人びとが粘り強く声をあげて反対したから、珠洲原発はできませんでした。でも、もしも原発ができていたら、このたびの能登半島地震は原発の直下型地震となっていたことになります。

 その場合、大地震の災害に原子力の災害まで加わって、被災した人びとの避難も被災地への救援も困難を極めたことでしょう。被害はもっと深刻となっていたはずです。さらに、原子力の災害が地震による被災地を超えて広域でおきていた可能性もあります。

 それを回避できたのは、まぎれもなく珠洲の原発反対運動によると思います。その運動に参加していた方々は、みずからを助けたと同時に他者をも助けたのだとハッとさせられました。

 脳裏によみがえるのは、ある出来事です。1996年の珠洲市長選挙で、「原発はいらない」と訴えた樫田準一郎候補の選挙運動の準備で帰りが遅くなったときのこと。事務所から車を出しつつシートベルトを掛けようとしていたら、パトカーがあらわれて、止まるように言いました。

 私は車を静かに停めて、運転席の窓を開けました。場所は珠洲市の中心部でしたが、既にあたりには車も人も見えません。うしろに停まったパトカーから警察の制服を着た男性がひとり降りてきて、免許証を見せるようにと私に言いました。

 運転席に座ったまま窓から私が運転免許証を見せると、その男性はそれを手にとって、車の後方へ向かいます。見せるだけで渡すつもりはなかった私は、驚いて車を出ました。車の運転免許をアメリカで取った私は、警察の制服を着ている相手といえども免許証は安易に渡してはいけないと聞いていたからです。

 見れば、男性は私が運転していた車の後方の暗がりで、テールランプを頼りに免許証を見つつ何やら紙に書いています。それは越権行為だと思った私は、咄嗟に自分の免許証を奪いかえし、男性の手元の紙を手にとって破りすてました。

 そのとき車に同乗していた高屋の方が、警察の制服を着たその男性に、次のような趣旨のことを言ったのです。

「嫌がらせなんか? 原発に反対して選挙運動をやっとる僕らへの。この選挙をやっとるのは原発に反対の人のためだけじゃなくて、賛成している人のためでもある。人間愛なんです。不当なことをしてくれるな」

 制服姿の男性は「シートベルトをしてください」と言うと去りました。

 樫田候補の当選は成りませんでした。それでも、それから7年を経て珠洲の原発計画は止まり、さらに21年を経て、能登半島地震によって原発震災の再来を招くことを回避したのです。

 2024年1月12日現在、高屋町の人びとはさいわい全員ご無事と聞いています。地震により多くの家が倒壊し、道路は寸断されて集落は孤立しましたが、夜はみんなで車に乗りあわせて車中泊をして、しのいだそうです。  そして地震の発生から10日目、車で通れるようになった一本の道を30台で一気に走って、孤立からの脱出を果たしたとか。きっと緊張感もあったでしょうが、にもかかわらず笑い、たくましくもしなやかに「大脱走」を成し遂げたのではないかと想像しています。

*本稿は一般財団法人上野千鶴子基金の助成を受けた取材活動を土台に執筆しています。

山秋 真

『地球号の危機ニュースレター』
No.523(2024年1月号)