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<講演会報告>「民主化に向かうビルマが抱える問題とその背景」

最終更新日 2013年 6月 13日 9943 views

12月7日におこなわれた宇田有三さん、中尾恵子さんの講演内容の一部を抜粋して報告します。

image<宇田有三さん>
 ちょっと前まではビルマのことを放送されるときは軍事政権とスーチーさんが闘っているような報道がほぼ8割を占めていました。本当は独裁者トムタンシェを中心とする数人の軍トップがスーチーさんと対決しているという構図であり、基本的には軍と対決していた訳ではありません。これがなかなか報道されなかったという現実があります。今現在は改革派・穏健派といわれるテインセイン氏が大統領です。

 2011年4月1日の補欠選挙でスーチーさんが議員になりました。今まで民主化活動家だったスーチーさんが国会議員になったことで非常に大きな落差があります。国会議員は国の役割を担います。アラン・クレメンツという欧米人の出家したお坊さんが、自宅軟禁中のスーチーさんにインタビューした対話の本があります。もし、あなたが国家の指導者となれば、ビルマですから国軍を動かさざるを得ない場合もあり、それに対してどうしますかと尋ねたところ、状況によっては政府の一員として「そういう決定をする」と答えています。我々も国会議員になったスーチーさんに対する見方を変えないとダメです。今までどおりの人権一本・民主主義一本ではなく、あくまでも国のために行動しているということを見ないといけません。

 

ビルマ(ミャンマー)の歴史

 1948年にイギリスから独立して各地で民族紛争があり、政治家が腐敗して国が回らなくなったときに、ネウイン将軍がクーデタを起します(1962年)。ビルマの軍事政権は実はここから始まっています。その後88年にスーチーさんが登場して、民主化勢力がネウイン将軍のクーデタ政権を倒しました。90年に総選挙を実施したところ軍政は大敗しましたが、軍事政権は政権移譲を拒否して民主化活動家の人たちを逮捕しました。その後タンシュエという上級大将が実権を握ります。

 2003年スーチーさんのNLD(国民民主連盟)という党の一行がマンダレー北部で襲撃され70人ほどが殺害されましたが、それはうやむやにされています(ディペイン事件)。そのあと国際社会からいろんなプレッシャーがあり、当時のキンニュン首相が、7つの段階を経て民主化を進めるというロードマップを発表しました。それがなかなか進まないなか、2007年にいわゆる僧侶の人たちが街の中で反政府を唱えるサフラン革命があり、日本人ジャーナリストの長井健司さんが射殺されるという事件がありました。

 2008年には新憲法が制定されました。実は1996年ぐらいから十数年以上にわたって憲法を作るための議員・代表者を集めるのですが、その代表者は全て軍事政権が寄せ集めた議会で作られたもので、非常に問題ある憲法です。25%は必ず軍の人を割り当てる。非常事態のときは国軍のトップが全権を握る。憲法を変えるためには75%の議会の発議により、加えて全有権者の半分以上の投票がないと変えられないというものです。

 国民投票の当日はビルマに大きなサイクロン・ダルビスが襲い、国民投票を延期しろという国際社会からの声があがりましたが、軍事政権はそれを聞かず、信任投票によってこの憲法は可決されました。その憲法に基づいて2010年の9月に20年ぶりに総選挙が行われ、一週間後にスーチーさんが三度目の自宅軟禁から開放されました。2011年1月から3月にかけて実に49年ぶりに議会が開かれ、テインセイン大統領が選ばれ、軍事政権が民政化されて今に至るというものです。

 その後2012年1月にカレン民族同盟KLUと停戦しました。これで世界一古い内戦はいちおう戦火を止めました。政府には民主化に反対する勢力もいたので、テインセイン大統領は一機に改革を進めていたわけではありません。政治囚の釈放も何段階にも分かれて行われました。ここでカレン民族同盟との停戦にこぎつけたことで、強行派の権力基盤が崩れ、テインセイン大統領の権力基盤が固まりました。これは一つのエポックメーキングな出来事です。

 国会議員はいかなる政党にも属さず国のために活動することから、政党の紐付きではないということで、閣僚になるときは議員を辞職します。閣僚になって議員が辞職した分の補欠選挙が行われます。4月の補欠選挙ではスーチーさんのNLDが大勝しました。これがざっとした大きな政治的な流れです。

 

監視社会・軍政下での取材

 民政化前はNLDの支持者が集団的に活動するのは非常に困難が伴いました。デモを監視するMI(ミリタリー・インテリジェンス)がいて、デモの人よりも周りを警備する人の方が多い感じです。普通の人と変わらない装いで、誰がMIなのかがわからないし、喫茶店などのふとしたところにいる。ビルマ取材の難しさは監視社会であることです。一定数の人がいたら半分は密告者です。自分たちが見て見ぬふりはできません。私は外国人なのでどこでも目立ちます。外国人が来たことを当局に通報せずに黙っていると、後でその人は罰せられます。取材相手が刑務所に入れられてしまわぬよう、気をつけなければいけません。

 以前まではビルマで政府関係者の写真を撮れば、すぐに阻止されました。しかし2007年ぐらいからあまり拘束も注意もされなくなりました。何がこのとき変わったのかといえば、2003年ぐらいから天然ガスが出て、それをタイに輸出して貿易黒字になりはじめたのです。政治的にも経済的にも安定してきたことでビルマ軍事政権は、俺たちはちょっとのことではビクともしないという自信を持ちはじめたのです。

 

ビルマの民族問題

 一説では6000万人程度の人口で135もの民族があると言われますが、これはおかしい。ユーゴスラビアの例でもそうですが、たくさんの民族がそれぞれ勝手では国が分裂して収まりがつかないので軍の力が必要だ、という論理をビルマも利用してきました。もともと民族ができたのは、実は植民地の遺産です。植民地以前、各民族は言葉や風習が違うという程度のものでした。イギリスが植民地支配(徴税)のために人口調査をしたときに、言葉や容貌の違いで人を区分けして民族が作られたのです。

 ビルマには5種類のイスラムがいます。中国系のパンディート、マレーシア系のパシュート、インド・パキスタンからのバンマー・ムスリム。中東から来たカマン。バングラディッシュ系のロヒンジャ。ほぼ95%はスンニ派です。

実はイスラムの人はビルマの人たちから嫌われています。かつてビルマはイギリスの植民地だったときはインドの一州で、独立した国として支配されていたわけではなく、あくまでもインドの下で、インド人たちに食べさせるお米を作るために大開発された場所でした。そのときに中国からもたくさん人が入ってきたし、イギリスはインドやバングラディッシュからたくさんの人をデルタやヤンゴンに移住させました。

 一時期ヤンゴンの人口は半分以上がインド系の人が占め、数的に圧倒されたビルマ人にとってインド系の人に対する反発が非常に強かった。インド系の人に高利貸し・地主という経済的支配層が多かったことも反発の原因でしたが、やがて、インド人は色が浅黒い→色が浅黒い人は嫌い→ムスリムの人たちも浅黒い→だから嫌い、というように、色の黒い人を見たら、それはインド系かムスリム系か区別せずに反発するという風に転じました。また、イスラムの人たちは非常に経済的なつながりが強く、ビルマの人にすれば1948年に独立して自分たちの国を持ったつもりが、実はいまだに経済を握っているのは色の黒いムスリムたちだということでの反発もあります。

 

政治的に作られたロヒンジャ問題

 ビルマは仏教国ですけれども、大きく三種類の仏教の流れがあります。モン族が作ったモン・クメールの仏教とビルマ族の仏教、そしてラカイン・ヤカイン・アラカンが作った仏教です。ラカインはバングラディッシュ国境に接する州ですが、昔はバングラディッシュの一帯も含んだ一つの仏教国でした。

 1940年代から60年代にかけてのビルマ独立後の混乱で、各地で民族紛争や共産党などの武装闘争が始まり、バングラディッシュ(当時は東パキスタン)にイスラムの人たちが流れ込んできました。これに手当てしなければ聖戦をしかけるぞと、東パキスタンが当時ビルマのウーヌー政権を脅し、そこでウーヌー政権は、ロヒンジャの人たちにラカイン州の北にあるマイウ地方を特別に居住地区として与えました。言わば合法的な居住地区を与えたわけですが、こんどはそこにバングラディッシュから人が流入してくるというようなことが起こりました。

 より現在に近いところでは、パイプラインを通すというような経済投資が進み、利権に絡む土地収奪の目的から、ロヒンジャとラカインの対立に混ぜて、全員を土地から追い出そうとする動きもあります。ロヒンジャの問題が一言で言えないのはこのように、その時代と状況によって紛争の背景が全然違うからです。過去にバングラディッシュが、いろいろな土地の強制移住をして人が流れてきたこと、国内的なビルマの状況でロヒンジャが流れ出ること、国籍法のこと、などなど、一つ一つを見ていかないとわからない。以前、ビルマ軍事政権はロヒンジャの人たちに永住権を与えると国連に届けましたが、国籍を与えるのは本当はおかしいことです。

 しかし一番の問題は、民政下にせよ軍政下にせよビルマ政府が約束したことを果たしてこなかったことです。2012年11月にテインセイン大統領がロヒンジャ難民に対して市民権を与える考えを表明した書簡をバン・ギ・ムン国連総長宛に送りましたが、現在は続報を待つ状況です。特に差別されてきたロヒンジャの人たちに、ほとんどの責任を覆いかぶせている状況があります。一つひとつの事情でロヒンジャの人たちがスケープゴートになっていることを見なければなりませんが、どうしてもメディアは簡単に言ってしまうところがあります。ロヒンジャの問題は一般に言われているほど民族紛争とか宗教紛争ではなく、実は政治的に作られた紛争だということです。

 

image<中尾恵子さん>
 ビルマ難民は非常に複雑です。タイ国境の公式難民キャンプには15万人。バングラディッシュ国境にはロヒンジャの難民、そしてビルマ国内にも国内避難民(IDP)が40万人はいると伝えられており、IDPキャンプにはだいたい17,000人がいます。近隣国タイやマレーシアへの移住労働者も多く、特にタイでは約300万人の移住労働者のうち八割がビルマ人だと言われます。

 今の大きな問題は、タイ政府は労働許可証を持っていない人を2012年末で自国に追い返すと言っており、ビルマ人で労働許可証を持っている人が68万人程度しかいないことからするとこの先たいへんなことになります。国軍の戦闘によって10万人が住む場所を奪われ、中国国境にはカチンの6000人が国内避難民になっています。民主化活動をしたことで国を追われた人々は、日本を含む先進諸国に条約難民として逃れています。また2006年からは第三国定住の措置が始まり、76,756人がタイの難民キャンプから出国して先進国に渡っています。

 

難民キャンプでの生活

 タイ・ビルマ国境援助協会TBBCというNGOの連合体(欧米政府や国際NGOが資金を拠出)が、難民キャンプでの生活を支援しています。難民一人に対して米が12キロ、豆が1キロなどの食糧と衣類なども配給されており、難民キャンプにいればまずは衣食住の心配はないという現状です。ただ、この援助も今般の民主化の流れによってビルマ国内の方に支援がシフトをしてきており、今までどおり継続するのが難しくなっています。また、これからどうやって難民を帰還させるかという問題もあります。

 訪問した二つのキャンプでのロヒンジャの人たちからの聞き取りでは、ビルマ国内の生活では、仕事・教育・往来の自由がないことを皆が揃って話していました。ロヒンジャには市民権がなく、国軍からの抑圧もありました。ラカイン民族への嫌悪感を持つ人もいますが、昔はロヒンジャもラカインの人たちも平和に暮らしていたとも語っていました。

 

公式・非公式難民キャンプの差

 タイ国境の公式難民キャンプはNGOが入って支援活動等ができるので、衣食住の提供、学校教育など支援が届いているほか、自助組織の活動、宗教の自由(寺院・教会の建立)、服装、連絡手段(携帯電話等)など、自由度が高い。ビルマ国内避難民(IDP)の村では、国内であるためNGOの支援活動は入れませんが、その他の自由度は公式キャンプと同じです。

 他方、非公式難民キャンプにはNGOの支援が一切なく、自分たちがグループを作って支援活動をする自助組織の活動や外部に連絡して支援を依頼することも禁止されています。服装の自由がないところでは決められた服装(ロンジー)を着なければなりません。キャンプ外にいても難民であることを判別するためです。キャンプによって支援の差がこんなにもあるという実感です。

 難民キャンプに暮らしていない人たちは、NGOの支援も自助組織もなく、それぞれが自活しなければなりません。タイ国境のメソットという町にはビルマ人が多いのですが、町のゴミ捨て場で暮らしている家族がいます。縫製工場から捨てられる布を編んで足拭きマットを作って生計を立てていました。小さい子はNGOが運営する学校に通いますが、8歳ぐらいで仕事ができるようになると学校をやめて家業を手伝います。ビルマのときと比べて生活はどうかと尋ねると、ゴミの上に住んでいる方がマシだと言います。ビルマでどういう生活をしていたのか想像もつきません。

 ビルマに本当の民主化が根づいて、子どもたち、あるいはその両親が生まれた村に帰れるようになるまで、私たちは支援を続けて行きたいと思います。(まとめ・花岡英治)

 

講 演:「民主化に向かうビルマが抱える問題とその背景」
講 師: 宇田 有三さん(フォトジャーナリスト)
              中尾 恵子さん(日本ビルマ救援センター代表)
開催日: 2012年12月7日(金) 
会 場: 大竹財団会議室

 

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